策略
壁は人を隔つ。
リビングでテレビを垂れ流す私、書斎で仕事を片付ける彼。
仕事の邪魔をするといけないから、
そう言ってかつて消音だったテレビは
いつしかリビングいっぱいに音声を蓄えていた。
「音、小さくしてくれる?」
そんな言葉とともに、
私の左脇が彼で埋まることを祈っているのかもしれない。
もしくは
「うるさい」
その一言でドアが一度開くきりでも、よいのかもしれない。
テレビは他人のそのけたたましい笑い声を撒き散らし、
「CMのあと!」
というワイプを表示してCMに入った。
ドアは、開かない。
以前、一緒に汗だくになって運んだはずのソファに手をのばす。
革製の、少しひやりとした感覚が肌を伝う。
その上に音を立てないよう、静かにのし上がった。
ギシ、軋んだ音さえもテレビの音声に掻き消されている事に気付く。
小さくため息をつき掻き揚げた髪を耳にかけると、
私は壁にそっと耳を押し当てた。
彼が、聞こえるかもしれない。
彼の立てる、小さな生活音がこの耳の
この鼓膜を鳴らしてくれるかもしれない。
そんな淡い期待を抱くもあっさりと裏切られ、
私の耳にはテレビの音声だけが響いた。
CMがあけ、またも他人の笑い声がリビングに充満する。
向き直ってテレビを見つめてみるが、
私には砂嵐を眺めるあれと似た感覚だけが流れるばかりだ。
うるさい。
リモコンに手をのばし、赤いボタンを押して音声の生命を絶つと、
誰かの言葉が妙な節で途切れて私の耳に残った。
彼の声はおろかその生活音さえも拾わないこの耳は、
誰のものかもわからない声だけ拾う。
その事実に思わず驚嘆した。
私は今、誰の側にいるのだろう。
いつの日か私をこの部屋へ誘った彼を、
いつまでか私の左脇に居た彼を、私はもはや失っていた。
今となっては、彼の顔さえ失った気さえしている。
最後に見た彼が、笑っていたか泣いていたか、
それとも怒っていたか。
何もわからない。
静かになったリビングでまた耳を澄ましてみるけれど、
やはり彼は聞こえなかった。
壁は人を隔つ。
私は声を押し殺し、静かに泣いた。
ドアは、開かない。