ラーメン屋の淡い恋
太郎は古女房の妙子と一緒に小さなラーメン屋を営んでいる。
毎日疲れるくらい働いても、生活はいっこうに楽にならず、自転車操業の日々である。このまま老いてどうなるのだろう。今ですら何の楽しみがないのに、このまま老いて何の楽しみがあるのか。どうすることもできないと分かっていながら、どうすることもできないことへのある種の怒りにも似た思いを太郎はずっと抱いていた。
そんなときに中国人留学生の美麗が店で働かせて欲しいと来た。その美しさに驚いた。迷っている太郎に、「働かせてあげたら」 と言ったのは、古女房の妙子であった。
この古女房と一緒になったのは、二十五の時だ。たぶんやけっぱちになっていた。というのも、たまたま偶然、高校時代の級友に会ったときのことのである。たいして出来が良くなかったのに、彼は私立の医大に入り、太郎が憧れていためでたく医者になるための切符を手に入れたのである。太郎は悔しかった。彼は高校時代、アルバイトとしながら医者になるために必死に勉学に励んでいたが、突然、父親が三度の飯より好きな酒が原因で死んで、そのせいで、家計を助けるために泣く泣く高校を中退したのである。高校を辞め働いてからも夢を見た。医者になった夢を。その夢を友人は何の苦労もせずに手に入れたのを知って、太郎はヤケになった。そして毎晩飲み歩くようになった。そんな時、「体を大事にしなくちゃだめよ」と優しく声をかけてくれたのが、幼なじみ妙子だった。妙子が自分に心を寄せているのは知っていたが、ずっと知らないふりをしていた。しかし、声をかけられたとき、ふいと心が揺れたのである。遊び半分で太郎が飲みに誘うと妙子がついてきた。そして酔った拍子に太郎が抱いた。
肉体関係を持った半年後のことだった。妙子が太郎を自分の部屋に呼んだ。何となく気が進まなかった太郎だが、断る理由がなかったので訪れた。珍しく東京に雪が降った冬の日のことである。
事が終わった後、妙子が笑みを浮かべてさりげなく聞いた。
「ねえ、私のこと、どう思っているの?」
遊び? しかし、そんなことは口が裂けても言えなかった。妙子もまた同じ貧しい境遇で生まれて、こつこつと生きてきたことを知っていたから。中学を卒業するとすぐに働いてずっと家計を支えてきた。若い女たちが華やかに身を飾るようなこともなく、せいぜいほんの少し申し訳程度に口紅をひくくらいだった。そんな妙子を哀れに思ったことはある。しかし、それだからといって同情だけで抱いたわけではない。誰かと繋がりたかった。慰めあいたかった。性欲を満たしたかった。しかし、そんなことを素直に言えなかった。
ふと、妙子が真顔で見ているのに気づいた。
返答に困って「結婚しようか?」 と何気なく言った。
妙子だって遊びだろう、二十五の若さで結婚なんか考えていないだろう、そんなふうに高をくくったところもあった。が、妙子は神妙な顔をしたままだった。太郎はしまったと思った。
「うん」とうなずいた。
ある意味、太郎にとって、妙子との結婚は不本意なものであった。彼が望んだのは、美しくて、張りのある大きな胸をして、天使のような美しい声がする女神のような女である。妙子はそんな女神から程遠かった。むろん、そんなことを口にしたことは一度もない。ともかくも、そんな妙子と二人三脚で一生懸命働き、二十年目にようやく店を手に入れたのである。その矢先に中国から来た学生の美麗がアルルバイトに来た。
美麗は注文をよく間違えるし、たどたどしい日本語は時折何を言っているか分からない。美麗が店に来た頃はよく太郎は叱った。それでも半年も経つと、だいぶ慣れた。
春先のことだった。妙子は風邪をこじらせ入院した。太郎は美麗と一緒に店を切り盛りすることになった。
ある日、店じまいした後、二人でビールを飲んだ。
アルコールが入ったせいか、美麗は聞かれもしないのに、あれこれと語った。日本に来て二年になること。働きながら家にも仕送りしていること。決して外食はしないこと。服も出来る限り安いものを買っていることなど。
「何になりたい?」
「歌手になりたい」と言った。
確かに美麗の声は類い稀な美しい声をしていた。そのうえ甘くて切ない。どこか守ってやりたくなる。
いつしか美麗がじっと自分のことを見ていることに太郎は気づいた。見つめ会うのはどこか恥ずかしかったが、それでも時おり品定めでもするように見た。彼女の美しさの虜になってしまった。彼女には、男性本能を駆り立てる妖しい美しさがあった。ふと太郎は美麗が思い描いていた女神のような美しい女であるに気づいた。手を伸ばせば、簡単に手に入るような気がした。とても美味しい果実な美しい女神が。
「私ね。ずっと思っていた」
「何を?」
「太郎さんってとても素敵な人だって」
「大人をからかうなよ」と太郎は慌てた。
美麗は首を振った。
「からかっていないよ」と美麗はまた太郎を見つめた。
美味しい果実が自分の方から近づいていると思った。あと一歩踏み込めば、美味しい果実は手に入ると確信した。そのとき、妙子の顔が浮かんでしまった。淡い恋の夢はそこで萎んだ。
「もう寝よう、明日も早いし……」と太郎は言った。
太郎は布団の中であれこれと考えた。どう考えても、二十年もともに苦労を重ねてきた妙子を裏切ることはできないと結論に達した。美麗に心を寄せたのは、一時の心の迷い。が、甘い恋の夢を見てしまったことに後悔はしなかった。
翌日、仕事が終わった後、太郎は「そろそろ別の働き口を見つけてくれ。美麗さんほどの器量があれば、どこでも働けるから。何なら、近くのスーパーとか紹介してもいいぞ。きっと給料はうちよりもいいよ」とぶっきらぼうに言うと、美麗は小さな声で「はい」と答えた。
妙子が退院したときに美麗がいないことに気づいて、「どうしたの?」
「他に良い所が見つかって店を辞めたよ」
「そう、残念ね。結構良い女だったのに。残念と思っているでしょ?」
まるで心の中を見透かれたようで、慌てて「バカ言うな、あんな小娘、はなから眼中にないよ」