白の行く末
「冷たくないの」
そう聞いたわたしの目のあたりを見ながら、礎子は首を振った。縦に振られた首を視界の端に確認してわたしは「脱げばよかったのに」と無責任なことを口にする。わたしの部屋のクローゼットにあるどんな服も、これのかわりになりそうにない。それなのに、随分勝手なことを言ってしまった。
「脱いだら、下着だけになるじゃない」
礎子は笑った。品のないことを言って品よく笑う礎子は、なんだか気持ちが悪い。ただ、「裸になるじゃない」と言われなかっただけ、マシだったかもしれない。
それまであふれ出ていた唾液がひっこんで、今度は口の中が苦くなった。喉の奥から、いや、胃の中から液体が逆流しているような感覚がする。もし吐いてしまったらこの白いワンピースには、物凄い色がつきそうだ。
それを現実にしないように、わたしは絵の具の箱に手を伸ばしてカーマインとコバルトブルーを水の滴る筆先で混ぜる。ぐちょり、と音がした。それもやがて水音に変わっていき、できあがった紫をまたワンピースにおとした。雨が傘にあたるような、そんな音がした。跳ねた紫がフローリングをよごす。でも、そんなことを気にしているような暇はなかった。
「センスがいいわね、祥って」
紫が気に入ったのか、それとも全体的な色合いが気に入ったのかわからないけれども、礎子はまた笑った。今度は気持ち悪くはなかった。気持ち悪さを羞恥がなぎ倒して、わたしの顔は火照る。微かな声で礼を告げると礎子は「照れなくてもいいのよ」とわたしの癖のある髪を撫ぜた。
「もうこんな服着ないって思っていたけれど、これからも着ようかしら」
礎子は一人ごとのように呟いてから、「できあがるの、楽しみだわ」と微笑んだ。なんとなく、残念だと思う。わたしが何より似合うと心のどこかで思っていた白のワンピースは礎子にとって「こんな服」だったのだ。
「そう」
きっと悲しいような寂しいような気持ちが混じったこの笑顔は、どこかいびつに違いない。それでもわたしは笑んだ。礎子の手が頬におりてくる。
「でも、赤そのままは入れないでね」
目線をあげて目だけで問いかける。わたしのそんな表情をまたにこりと笑ってみながら礎子は一言「赤が入ったら着られないわ」と口にした。
「そう、赤」
「えぇ、赤よ」
短いやり取りだけれども、それは重要な約束事だとわたしの頭の中にインプットされる。赤はダメ、赤そのものは、駄目だ。
(なぜ、だろう)
浮かんだ疑問は口にしてみれば意外とあっさり解決するのかもしれなく、いっそ問いかけようかと思ったけれども、その気持ちはあっさり立ち消えた。礎子の目からは涙がこぼれていた。
「こんな服、着なきゃよかったわ」
礎子は口の端をそれでも下げずに上げたままのかたちで、わたしか誰かに告げる。着なきゃよかった、着なきゃよかった。そればかり、口にする。
困惑したわたしが視線を彷徨わせると、礎子の鎖骨に湿疹のような、赤い点がひとつだけあった。体温が下がって、血も引いて、なのに頭は沸騰した。わたしの中で、黒の混じった血が沸き立つ心地がした。
わたしは礎子を慰めるわけでもなく、少しの黒と紫の残りのカーマインを混ぜて、水をほんの少しつけてから涙にくれる礎子の足をひらかせて白い足のあいだからのぞく白いワンピースの生地に、そっと点を打つように色をつけた。礎子はその間も悲しみが終わらないようで、涙を流していた。筆は水入れにつけて洗い流した。色はとれている筈なのにいつまでもいつまでも音を立ててそうしていた。そうしている内になぜかわたしの視界もぼやけていく。筆をそっと白いタオルで拭っても、ぼやけた視界はそのままでふしぎに感じられた。わたしは少しだけ乾いた筆先をまだ涙を流している礎子の頬へと静かにつけて、涙が筆をしとどに濡らすのを期待した。礎子は口元に手をあてながら、声だけ殺して泣く。そうしてたくさんの涙を、筆に与えてくれた。
「着てよ、礎子」
そう言いながら、わたしは涙で湿った筆先に黒とコバルトブルーでつくったひとつの色をそっと礎子の胸の真ん中に押し当てた。礎子は「着るわ、着るわ。だって、祥がこんなに綺麗にしてくれたもの」と涙を拭きながら笑った。その礎子の白い右頬に赤黒いシミが目立ったのを見て、わたしはまた情けなくいびつない笑顔をみせた。