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   ――  001  ――
 その電車は、一言で表すのなら異様だった。
 まず、乗っているのがいつの間にか俺を含めて二人だけだ。隣の車両は満員と言わないまでも、ほとんどの席が埋まってる。
 たまたま乗っていた人がどんどん降りていき、乗る人間がいなかった。そう、偶然だ。
 そう考えるように努める。だが、考えれば考えるほどにおかしい。
 座れない車両が並ぶ中に、明らかに空きつつある車両があれば何人かは乗るだろう。ところが、現実はこの有り得ない光景だ。
 ……こんなことになるなら、寝るんじゃなかった。
 今更、後悔したところではじまらない。
 別の車両、どこかの駅。なんでもいい。ここから離れよう。
 そう考えたとき、軽く肩を叩かれた。無意識のうちにうつむいていた顔をあげると、そこにあったのは俺を除けば唯一の乗客。その男が目の前に立っていた。
「なんですか?」
 自分でも驚くほど普通な返事が喉から出た。いや、そう思っているのは自分だけで、相手からすれば挙動不審な、あるいは見るからに怯えた獲物のように映っているかも知れないが。
「いや、用ってほどのもんじゃないんだけどね。変わった状況だから、声でもかけてみようかと」
「あぁ、なるほど」
 納得。どうやらこの異様さは俺だけが感じていたのではなく、彼も感じているものらしかった。
 先ほどまでの不快感、不気味さはどこへやら。このガタイのいい四十がらみの男に、俺は親近感すら湧いた。
「どうします、この状況? 隣の車両に移るとか」
「今こうやって話しているし、大丈夫じゃないかな。なんて、安心したから言えるんだけどね。おじさん、こう見えて小心者だから」
 笑みを浮かべ、大きな身体からは想像できないような事を口にする。
「そうですね、何処の駅で降ります? 俺はあと3つほど先の駅で降りるんですが」
「ふむ、おじさんは次の駅で降りようかな、と。今日は久々に休日が取れたのでね、気ままな電車旅をしているんだよ。まさかその途中でこんな珍しい光景に出会うとは思ってもみなかったけどね」
 今日は平日だが、久々の休日だと言う。おそらく定休返上で働いていたのだろう。もしかすると自営業なのかも知れない。そんなことを考えていると、スピーカーから声。もうすぐ次の駅だというアナウンスだ。
「短い時間だったな。おじさんとしては少々残念だがしかたない。まぁ、仕事ができるならやった方がいいのは、善悪問わず共通だろうしね」
 大仰なほどの仕草で、俺にはわからないことを言う。しかし、そんな疑問をぶつけている時間もないと思い、告げる。
「それじゃあ、また縁があれば」
 こちらが手を挙げたとき、閃いたように口だけで笑う。否、嗤う。
 その表情に、俺は茫然自失に陥る。
「少年、君に名前を教えておこう。なに、冥土の土産というやつさ」
 男は言いながら、俺の手を掴む。
「おじさんは、刑部刑部(オサカベ ギョウブ)。悪党だよ」
 その言葉と同時、腕に違和感。喉から声が漏れそうになった。
 だが、その声は一向に聞こえない。
「悲鳴でも奇声でも構わないが、声は邪魔なんでね。悪いが、喉は潰させてもらったよ」
 男の言葉が理解できない。理解しようとすると、あまりに強い痛みが思考を邪魔する。そこで気づいた。この男は悪党なのだと。
「安心するといい。少年よ、君はなにも悪くない。何一つとして悪くない。悪いのは全部、おじさんさ」
 自分の首から、なにかがねじ切れる音を聞いた。いつの間にか、俺の視界は左が空に、右が地面になっている。床に、頬の温度が吸われているのを感じた。
 最期に見たのは、悪党が仕事を遂げ、堂々と電車を降り、人混みの中に融けていく後ろ姿だった。