桃とおっちゃん
「なあ、桃子。そうやってふくれてると、お前の顔はほんとに桃みたいだなあ。ほらほら、朝日が差すと、うぶ毛が光ってら・・。あっはっはっは、桃だ、桃だ!高く売れるぞぉ!」
そういってからかうと、桃子はさっ、と顔色を変え、「おっちゃん、桃子、売っちゃうの?」と真顔になる。
あわてておっちゃんは「馬鹿だなあ、桃子、売らないよ、桃子。」
何度もそう言ってなだめるのだった。
おっちゃんの生活は桃子が来てから次第に変わっていった。
酒を飲むと桃子が怒るから、あんまり飲まなくなった。飲まないから桃子と一緒に食う飯がうまい。やせ細っていたおっちゃんの体は赤銅色のまま、たくましく、筋肉がついていき、商売も遠方まで行く体力がついてきた。
桃子は相変わらずの頭ではあったが、16歳の娘らしく、体には丸みを帯び、ふっくらしはじめた胸をときおり不思議そうに見下ろしたりしていた。
そんな桃子をおっちゃんは時折、まぶしそうに見ては「このまんまじゃ、いけないんだよなあ・・。ちゃんとおめえをどっかに預けなきゃよぅ・・」
と桃子に聞こえぬようつぶやいてはみるが、なかなかその決心がつかないのだった。
おっちゃんはもうリヤカーは引いておらず、中古の軽トラックを手に入れ、ペンキででかでかと廃品回収・修理、と謳った看板を作ってバラックにも作り付け、車の横っ腹にも(有)と頭につけた自分のはじめた小さな商売の会社の文字を書き、意気揚々であった。
少しまとまった金ができると、以前は街の赤い灯のもとで、女を買ったり、博打をしたりしてスってしまったが、今ではもう彼には桃子がいる。
そういう場所には次第に足が遠のいてしまっている。
桃子はびんの片づけ、段ボールの仕分け、アルミ缶だけのよりわけ、針金のまとめかた、古雑誌や古新聞の縛り方、などは上達していたが、
家事にはほとんど興味を示さず、料理や洗濯や掃除は相変わらずおっちゃんの役割だった。
それでもおっちゃんは文句も言わず、桃子に料理を作って食べさせ、お湯でしぼったよれよれのタオルで体を拭いてやり、夜には桃子をからかいながら笑い、隣に敷いたふとんで眠るのだった。
毎日が楽しかった。働いても、働いても、疲れを感じなかった。
この貧しい元ボタ山の地域にも都会化、整美化の波が押し寄せてきていることはなんとなくわかっていたが、それにしても最近はよく街から役人やら、福祉課の職員やらが訪ねてくる。
おっちゃんは桃子との別れが近いことを感じ取っていた。
いつかはこの日がくることはわかっていた。
ことに最近の桃子は目を見張るほど、美しくなってきて、商売で駆け回っているときに、ほうぼうでくちさがない人々にあらぬ噂がたっている、ことも耳にしている。
桃子は健康で、頭こそ少し足りないし、めったに口をきかないが、優しい子だった。地下足袋を脱いだおっちゃんが土間からあがるときは必ず足を洗ってくれた。背中がかゆいといえば、いつまでも小さな手で掻いてくれた。
たまにおっちゃんがいやらしい写真が載っている雑誌を見ていると、ぷぅーーっと熟れた桃のようなほっぺたをして、とりあげ、破り捨てた。
桃子には桃色が似合う、といつもおっちゃんは桃色の服を買っては桃子にあてがった。
そんな日々とももうすぐお別れだと思うと、おっちゃんは切なく、立っている地面が地割れでも起こしたかのような気分になる。
その夜、おっちゃんは、はじめて桃子に真面目な顔で正座して向き合い、話し始めた。どうせ桃子は何も答えないだろう、だが、一方通行の話には慣れている・・。
「あのなあ、桃子。桃子はね、これからどんどん大人になっていくんだ。だからな、おいらといちゃまずいんだ。桃子はちゃんと勉強もして、そんでな、嫁にもいかにゃあなんねえ。だからな、桃子は街へ行くんだ。」
すると聞いていないかのようにいつものように毛糸であやとりをしていた桃子が
きっ、とおっちゃんに向きなおり、「桃子、どこにもいかん!!」と言った。
「わかった、わかった、桃子、もう言わん。言わんから寝よう。」
翌日、おっちゃんはいつものように軽トラックで仕事に出て行った。
最近ではもう桃子は連れて行っていないから、桃子は疑わなかった。
昼には役所の人間が来て、桃子を連れて行くだろう。そして・・強制入院とやらをさせてしまうのだろう。
おっちゃんにはどうすることもできなかった。
きっと桃子は騒がないだろう。おいらに初めて会ったときのように、静かに涙を流しながら、運命を受け入れるのだろう。
おっちゃんは桃子のいないバラック小屋に帰るのは耐えられなかった。
二度と帰りたくなかった。
桃子は役所の車に乗せられ、さらに深い山の中に建てられた病院へと送られる。
もう会うことはできないだろう。
季節はまためぐり、いつのまにか桃子と出会った頃になっていた。
ふと軽トラックを運転しながら見ると、街道沿いに桃の樹が植えられており、
たわわに実っている。
おっちゃんは赤信号で止まったすきに急いで運転席からすべりおり、
その果実のひとつをもぎとって、また車を発進させた。大事に不織布で包まれたその見事な若い果実は、朝日を受けた産毛が光り、今にも笑い出しそうであった。おっちゃんは道路わきに車を止め、
しばらくその果実を見つめ、やがて涙が流れるにまかせたまま、その実にかぶりついた。あごにしたたる果汁をぬぐいもせず、おっちゃんは残らず味わった。まだ少し硬さを残した桃はそれでも十分柔らかな白い果肉を持っており、歯と歯の間にしたたり、沁みいる汁の味は舌と喉と胃とをうるおし、全身にきらきらとまわり、おっちゃんの血と一緒になって、体じゅうをめぐりまわっているかのようだった。
食べ終わったおっちゃんは、まだ夕方だったが、酒も飲まずにバラックに帰った。
誰もいないバラック小屋の前の雑草が生い茂る場所から、少し行くと、池がある。おっちゃんはポケットからちりがみにくるんだ、先ほど食べた桃の大きな種を取出し、ふしくれだった指で土を掘り、種を埋めた。
土をかけながら、「大きくなれよ、桃子、きれいに咲けよ、えっさかほいさ、ほいさっさ・・」
おっちゃんは泣きながら、ひたすら、ひたすら土をかけてゆくのだった。
赤く染まった空は相変わらずボタ山を照らし、おっちゃんの顔まで紅く、紅く染めてゆくのだった。
~~~~完~~~