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写実主義の硝子

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硝子一枚で隔たれた外は、さながら天然日焼けサロン状態だ。
 太陽は随分高い所にいるはずなのに、それでも激しく大地を照らしている。遠くに見える入道雲が、これから来る雨を恋しく思わせる。否、正確には雫が運んでくる涼しさをか。

 外の景色を、冷房の効いた部屋の中から見つめていた。
 心地よい空気と、ひんやりと肌にまとわりつく冷気。部屋の中は静かだと思っていたのは、どうやら私の心の中だけだったのようだ。実際、己を取り囲んでいる環境は、お世辞にも『静粛』そのものとは言い難かった。

 お世辞抜きで天井の高い部屋。その天井まで届きそうな書架。地震が起こったら大変なんじゃないかと余計なお世話を考えてしまう其処は、学校の図書館のように広く、移動梯子が設置されている。その中段辺りに深く腰をかけて、静かにページを捲っている銀髪の友人はとても理知的で綺麗だ。
 書架の向かいには革張りの赤色のソファには、マシンガントークでおなじみの友人が珍しく眠っていた。しかも自前のタオルケットを持ち込んで。夜更かしでもしたのだろうか。まるで天使のような愛らしい寝顔を浮かべた、仔犬の君。出来ることならこのまま起きないでくれたら平和なのに、なーんて。失礼極まりないことを考えた。まあ、考えるだけならタダだ。
 その傍らで綺麗な横顔を此方に向けて、ノートパソコンを膝の上に載せ、時折カチャカチャとキーボードを叩いている範(はん)ちゃんが座っている。顔を動くたび、さらりと絹のような前髪が揺れる。視線に気づかれたか、顔を上げそっと微笑んでくる。あそこまで見事に白いシャツが似合う殿方は、そうそういないのではないだろうか。
 此処までは、静かだ。とりあえずこの辺りまでは。

 部屋の反対側にあるビリヤード台に目を転じた。そこからはたびたび歓声が上がっている。声の主は約八名。音の高低はソプラノからバリトンまで。
 下手して巻き込まれるのは御免被るので、なるべくそちらを向かないようにして私はそっと窓辺に寄りかかった。
 日なたには逃げ水。こんなにもはっきりと水に濡れたように見えるのに、あの側に行くと、その名の通り、逃げていくんだろうな。何とはなしに見つめたあと、窓ガラスにそっと額を当てた。ひんやりとした感触を楽しみながら、目をつぶって脳内を休ませる。不意に、頬に感じる冷たさと水滴。

「ひっ」

 不覚にも、声にならない声を上げてしまう。振り向くと、にやにやと笑うゆうちゃんが。

「……何だね。ビリヤードやっていたんじゃなかったのかい?」
「いやー、スピカがなんか寂しそうだったからよ~」

 よく冷えた缶を手渡された。ああ、先ほど自分の頬に感じた冷たさはこれか。
 彼女は窓辺に腰をかけ、自分のグラスの中身を半分ほど一気に飲んでしまう。

「何か見えるの?」
「逃げ水がね」
「にげみず?」
「あれだよ」

 私が指さす先を、額を窓に押しつけて覗き込む友人の――暫らく見ない間に長くなった前髪に隠れている――額をみて。なぜか、一瞬戸惑った。

「あれ、水たまりじゃないよな?」
「勿論。逃げ水は、側に行くと遠くに逃げるんだ。地面の熱で、水でぬれたように見える気象光学現象の一つだよ」
「……お前もあの子らと同じで難しいこと知ってるよなー……」

 額をガラスから離して、少し呆れたような顔で私を見ている彼女の、そのまろい額を軽く指でつついてしまった。つついてから、はっとした顔をしている自分と、つつかれた当の本人のきょとんとした小麦色の顔。ほんの僅かな間、見つめ合う。

「お返しだべー!」

 少し、戸惑っていた隙があったのだろう。数倍以上の強さで弾かれる自分の額。かなり痛い。
 意外と官能的な紅い舌をだして、笑いながら撤退していくその後ろ姿。言い返すのも面倒なので、じんじんとしている額を押さえながら私は見送ることにした。
 遠くから、ビリヤードのキューが球を突く音と、“ジッとしていられないチーム”があげる声が聞こえる。窓にそっと寄りかかり、もう一度部屋の中を見渡す。
 やはり此処は静かだ。総合的に言うと、違うけれど。

(なんか、)

 此処で、夏の終わり近くにこんな風に過ごしている自分が、まるで自分じゃないような。ゆったりとした、余りにゆったりとした時間の流れに巻き込まれそうだ。
 そんなことを考えていた時。ガチャリと扉が開く音。足音までが貴婦人なのか。空気までが流れを変えているような気がする。

「満足か」

 部屋に入ってきたのはエリザベートさん。今回の旅行の幹事だ。
 彼女はちょうど手持ち無沙汰で壁に寄りかかっていた、武田(たけだ)先輩に話しかけた。

「暇だっての、なんか落ち着かねぇってか」
「何を申すか。どこの誰が、涼しく静かなところで夏休みの再後の一週間を過ごしたいと我侭を言った?」
「そりゃあ、俺らだけどよぉ。ちっとばかし静かすぎるぜ」
「ごちゃごちゃ申すな。貴様等の我侭(バカンス)に付き合うのに、わざわざ私は国内で手配したのじゃぞ」

 頬にかかる髪を払いながら、そう言い捨てる姿は相変わらずだ。

「多少の不満は我慢せい」
「見るがいい。スピカ達は見るからに満足そうではないか」

 急に名前を呼ばれ、顔を上げると。不敵な笑みが此方を見ていた。
 ……充分、満足にはいるだろう。涼しい部屋と静かにゆっくり流れる時間。何もしない一日。これ以上の贅沢があるだろうか。いつも時間に追われて生活している気がしていた私にとっては、これ以上の満足はないだろう。だから。
 だから、貴婦人の微笑みに満面の笑顔で返してみた。一瞬の驚いたようだが。それでも。女王様は、優雅に微笑んだ。

 夏の最後の、静かなヴァカンス。

(午後のおやつはシャーベットでした!)
作品名:写実主義の硝子 作家名:狂言巡