後ろ姿の少年に6 【事件】
【事件】
それは夏のある日盛りの午後に起きた。わたしは母から、ちょっと近所へ用事を済ませに行くから、その間だけ豚の番をしているように言われた。その頃は、どこの家でもたいてい豚を飼っていたから、子供が豚の番をするのはよくあることだった。ところが、父が死んでしばらくの間、わが家は豚の世話ができるような状態になかったため、豚のいない時期が続き、それがちょうどわたしの小学生時代に重なっていた。だから、うかつにもわたしは豚がどんな生き物かまるで知らなかった。もちろん、それまでにも近所の豚小屋をのぞく機会はあったはずだが、背が小さくて柵を越してのぞけなかったのと、何にもまして豚のあげるキューキュー、ギューギュー、ヒューヒューという声に恐れをなして、豚を見ようなどという気にまったくならなかったのである。
そんなある日の午前中、庭に出ると藤棚の下に白い犬のような動物が二匹、座るでもなく動くでもなく、なんだか、もたもたしているのに気がついた。はじめは犬かと思ったが、顔が似ても似つかない。ヤギかなと思ったが、角もひげもない。子牛にしては小さすぎる。こちらを向いた顔をよく見ると、口もとが笑っているようにも、悲しくて泣き出しそうなのを必死でこらえているようにも見えて気持ちが悪い。しかも鼻だけは無暗と大きく、それが時にわたしを威嚇(いかく)しているように思える。わたしは言い知れぬ恐怖にとらわれ、顔から血の気が引いていった。これまでの人生を振り返って、ものを名指しできぬことの恐ろしさをこれほど切実に感じたことは、あの時をおいてほかにない。わたしは急いで駆け戻って、母を庭に引っ張り出し、矢継ぎ早に質問した。
「あ、あ、あの、あの・・・あそこにいる、あれ、あれ、あれだよ。あれは何ていうの?」
母はわたしの指している動物が何かを知ると、あきれ果てたように答えた。
「まなぶ、おまえ、本当にあれを知らないの? ああ、気が遠くなりそうだよ。あれは、豚じゃないか」
それからというもの、この件では母にも姉にも散々ばかにされたものである。しかし、いかにばかにされようとも、以来わたしは、言い知れぬ不安を覚えずに、豚を見ることができなくなった。そこへ今回の母の命令である。わたしは母に手を合わせた。ほかのことなら何でもする。だから、豚の番だけはさせないでほしい、自分を豚と二人きりにしないでほしい。それほど豚が怖いのだと。ところが、そうしているときにちょうど、三軒先のゲンちゃんが遊びに来たのである。ゲンちゃんは、名前を田中元太郎といって何だかいかめしいが、仲間うちではゲンちゃんで通っていた(ちなみにわたしはガクちゃんと呼ばれていた)。その名の通り元気で活発、きっぷがいい。人にものを頼まれたらいやとは言わない。ただし、後先(あとさき)のことをあまり考えないのが玉に瑕である。母はゲンちゃんのきっぷのいいところに目をつけた。
「ねえ、ゲンちゃん。おばさん、近所で少し用事を済ませて来るから、悪いんだけれど、その間だけ、まなぶと一緒に豚の番をしててくれないかな。まなぶが、ひとりじゃ心細いって言うもんだから。お願いできる?」
「うん、いいよ」ゲンちゃんは快く引き受けた。
「それから、まなぶ」と母は、今度はわたしの方を向いて
「この黒豚はね、まだ子供だけど、とっても元気がいいの。すぐ柵を越えて逃げ出そうとするからしっかり見張っていておくれ。今日だってもう三回も逃げたんだから。怖いだなんて言ってないでちゃんと見張っているのよ」と噛んで含めるように言う。わたしは仕方なくうなずいた。
母が行ってしまうと、それでも好奇心が働いて、ゲンちゃんとわたしはすぐに豚小屋に飛んでいって、上からのぞきこんだ。なるほど、子犬のような黒いものが、豚小屋の中を所狭しと駆け回っている。ときどき、そのつやつやした黒い毛が、もれて来る夏の日差しにキラキラと光る。黒いものは、右に左にぐるぐる回っていたかと思えば、急に動きを止めて四方の柵をめがけてしゃにむに突進して来る。そのときにぴょんとはねる。はねたところが柵から遠ければ柵の手前に落ち、近すぎれば柵そのものに激突する。柵にぶつかればからだへの衝撃があって豚も痛かろうが、そこは若さゆえか口には出さない。すぐに体制を立て直すと、ぐるぐる回って、急に止まって、再び柵に突進して、またぴょんとはねる。これなら確かに、四回に一回くらいはうまく外に飛び出してしまいそうな勢いである。豚はわたしたちが見ていることなど眼中にないのだろう。今度はわたしたちの方へ猛然と突進して来て、ぴょんと飛び上がって柵に激突した。
「うわっ」
わたしたちは、その勢いの激しさに、びっくりして飛びのいた。それから顔を見合わせ、おたがい、胸をなでおろした。わたしは急に腹が痛くなり出した。
「ゲンちゃん、悪い。ぼく便所に行ってくる。すぐ戻ってくるから、豚を見ててくれる。たのんだよ」
わたしはそう言い置いて便所へと急いだ。その頃の農家の便所は母屋の外に立っている。しかも豚小屋とは五メートルも離れていないから、便所に入っていても豚のガタガタする音だけは聞こえて来る。ところが、しばらくガタガタした後で豚小屋は、しんとなった。わたしは心配になって急いで用を済ませ、外へ出ようと戸を開けた。その時である。
「ガクちゃん、豚が逃げたぞ!」
声のする方を見ると、すでにゲンちゃんが豚を追いかけて庭先を走っている。豚はその先を全速力でぐんぐん走って行く。わたしもすぐにゲンちゃんのあとを追いかけた。豚は何軒かの家の庭をジグザグに駆け抜けて行く。わたしは母に、逃がさないように念を押されていたことを思い出した。もはや絶対に取り逃がすことはできない。命にかえても捕まえなければならない、と本気でそのときは覚悟した。わたしは懸命に追いかけた。途中でゲンちゃんを抜き、豚との距離も二、三メートルに縮め、あともう少し手を伸ばせば捕まえられる、というところまで来て、急に豚は右に折れた。右に行けば、村の真ん中を通る、砂利の狭い街道に突き当たる。豚はその街道を左に逃げた。わたしも後を追って左に曲がる。顔を上げると、豚の走っていく七、八十メートル先に母が近所のじいさんと立ち話をしているのが視界に入った。
「かあちゃん、豚が逃げた!」わたしは声を限りに呼ばわった。その声に二人とも顔をこちらに向けた。二人は、すぐに事態を飲み込んだ模様で、こちらに向かって並んで駆け出してくる。
それは夏のある日盛りの午後に起きた。わたしは母から、ちょっと近所へ用事を済ませに行くから、その間だけ豚の番をしているように言われた。その頃は、どこの家でもたいてい豚を飼っていたから、子供が豚の番をするのはよくあることだった。ところが、父が死んでしばらくの間、わが家は豚の世話ができるような状態になかったため、豚のいない時期が続き、それがちょうどわたしの小学生時代に重なっていた。だから、うかつにもわたしは豚がどんな生き物かまるで知らなかった。もちろん、それまでにも近所の豚小屋をのぞく機会はあったはずだが、背が小さくて柵を越してのぞけなかったのと、何にもまして豚のあげるキューキュー、ギューギュー、ヒューヒューという声に恐れをなして、豚を見ようなどという気にまったくならなかったのである。
そんなある日の午前中、庭に出ると藤棚の下に白い犬のような動物が二匹、座るでもなく動くでもなく、なんだか、もたもたしているのに気がついた。はじめは犬かと思ったが、顔が似ても似つかない。ヤギかなと思ったが、角もひげもない。子牛にしては小さすぎる。こちらを向いた顔をよく見ると、口もとが笑っているようにも、悲しくて泣き出しそうなのを必死でこらえているようにも見えて気持ちが悪い。しかも鼻だけは無暗と大きく、それが時にわたしを威嚇(いかく)しているように思える。わたしは言い知れぬ恐怖にとらわれ、顔から血の気が引いていった。これまでの人生を振り返って、ものを名指しできぬことの恐ろしさをこれほど切実に感じたことは、あの時をおいてほかにない。わたしは急いで駆け戻って、母を庭に引っ張り出し、矢継ぎ早に質問した。
「あ、あ、あの、あの・・・あそこにいる、あれ、あれ、あれだよ。あれは何ていうの?」
母はわたしの指している動物が何かを知ると、あきれ果てたように答えた。
「まなぶ、おまえ、本当にあれを知らないの? ああ、気が遠くなりそうだよ。あれは、豚じゃないか」
それからというもの、この件では母にも姉にも散々ばかにされたものである。しかし、いかにばかにされようとも、以来わたしは、言い知れぬ不安を覚えずに、豚を見ることができなくなった。そこへ今回の母の命令である。わたしは母に手を合わせた。ほかのことなら何でもする。だから、豚の番だけはさせないでほしい、自分を豚と二人きりにしないでほしい。それほど豚が怖いのだと。ところが、そうしているときにちょうど、三軒先のゲンちゃんが遊びに来たのである。ゲンちゃんは、名前を田中元太郎といって何だかいかめしいが、仲間うちではゲンちゃんで通っていた(ちなみにわたしはガクちゃんと呼ばれていた)。その名の通り元気で活発、きっぷがいい。人にものを頼まれたらいやとは言わない。ただし、後先(あとさき)のことをあまり考えないのが玉に瑕である。母はゲンちゃんのきっぷのいいところに目をつけた。
「ねえ、ゲンちゃん。おばさん、近所で少し用事を済ませて来るから、悪いんだけれど、その間だけ、まなぶと一緒に豚の番をしててくれないかな。まなぶが、ひとりじゃ心細いって言うもんだから。お願いできる?」
「うん、いいよ」ゲンちゃんは快く引き受けた。
「それから、まなぶ」と母は、今度はわたしの方を向いて
「この黒豚はね、まだ子供だけど、とっても元気がいいの。すぐ柵を越えて逃げ出そうとするからしっかり見張っていておくれ。今日だってもう三回も逃げたんだから。怖いだなんて言ってないでちゃんと見張っているのよ」と噛んで含めるように言う。わたしは仕方なくうなずいた。
母が行ってしまうと、それでも好奇心が働いて、ゲンちゃんとわたしはすぐに豚小屋に飛んでいって、上からのぞきこんだ。なるほど、子犬のような黒いものが、豚小屋の中を所狭しと駆け回っている。ときどき、そのつやつやした黒い毛が、もれて来る夏の日差しにキラキラと光る。黒いものは、右に左にぐるぐる回っていたかと思えば、急に動きを止めて四方の柵をめがけてしゃにむに突進して来る。そのときにぴょんとはねる。はねたところが柵から遠ければ柵の手前に落ち、近すぎれば柵そのものに激突する。柵にぶつかればからだへの衝撃があって豚も痛かろうが、そこは若さゆえか口には出さない。すぐに体制を立て直すと、ぐるぐる回って、急に止まって、再び柵に突進して、またぴょんとはねる。これなら確かに、四回に一回くらいはうまく外に飛び出してしまいそうな勢いである。豚はわたしたちが見ていることなど眼中にないのだろう。今度はわたしたちの方へ猛然と突進して来て、ぴょんと飛び上がって柵に激突した。
「うわっ」
わたしたちは、その勢いの激しさに、びっくりして飛びのいた。それから顔を見合わせ、おたがい、胸をなでおろした。わたしは急に腹が痛くなり出した。
「ゲンちゃん、悪い。ぼく便所に行ってくる。すぐ戻ってくるから、豚を見ててくれる。たのんだよ」
わたしはそう言い置いて便所へと急いだ。その頃の農家の便所は母屋の外に立っている。しかも豚小屋とは五メートルも離れていないから、便所に入っていても豚のガタガタする音だけは聞こえて来る。ところが、しばらくガタガタした後で豚小屋は、しんとなった。わたしは心配になって急いで用を済ませ、外へ出ようと戸を開けた。その時である。
「ガクちゃん、豚が逃げたぞ!」
声のする方を見ると、すでにゲンちゃんが豚を追いかけて庭先を走っている。豚はその先を全速力でぐんぐん走って行く。わたしもすぐにゲンちゃんのあとを追いかけた。豚は何軒かの家の庭をジグザグに駆け抜けて行く。わたしは母に、逃がさないように念を押されていたことを思い出した。もはや絶対に取り逃がすことはできない。命にかえても捕まえなければならない、と本気でそのときは覚悟した。わたしは懸命に追いかけた。途中でゲンちゃんを抜き、豚との距離も二、三メートルに縮め、あともう少し手を伸ばせば捕まえられる、というところまで来て、急に豚は右に折れた。右に行けば、村の真ん中を通る、砂利の狭い街道に突き当たる。豚はその街道を左に逃げた。わたしも後を追って左に曲がる。顔を上げると、豚の走っていく七、八十メートル先に母が近所のじいさんと立ち話をしているのが視界に入った。
「かあちゃん、豚が逃げた!」わたしは声を限りに呼ばわった。その声に二人とも顔をこちらに向けた。二人は、すぐに事態を飲み込んだ模様で、こちらに向かって並んで駆け出してくる。
作品名:後ろ姿の少年に6 【事件】 作家名:折口学