ノスタルジア
昔、この職業についた二十代半ばの頃、生きて行くことに自信を失ったことがあります。自分の生きている意味が分からなくなったのです。わたしは何も手につかなくなりました。毎日、毎時間、なぜ生きているのか、そのことばかりが気にかかって仕方がありません。
旅に出よう、と思いました。幸い、神戸に古い友人がいましたから、とにかくそこまで行って話を聞いてもらおう、そうすれば少しは心が落ち着くかもしれない、そう考えて、夜行列車に乗ることに決めました。
決めたのは午後の四時でした。列車は午後十時二十一分でした。まだ六時間はあります。
ふと、映画が見たくなりました。それまで数本しか映画を見たことのないわたしが、急に見たくなるのは実に不思議なことでした。
本屋に入ってガイドブックに目を通しました。ある写真に目が留まりました。
朝もやの中で一人の女性が首をかしげて手紙を読んでいます。その向こうに男が一人、もの思わしげにたたずんでいます。タイトルに『ノスタルジア』とありました。私は即座にこの映画を見ようと思いました。
理由はわかりません。なんとか時間のほうは間に合います。場所が六本木というのが少し引っかかりましたが(わたしには向かない場所です)、でかけました。
六月半ばの蒸し暑い雨の日のことです。着くまでに思いの外、時間がかかり、開始時刻に遅れそうでした。わたしは強い風と雨の中を、不案内な映画館へと急ぎました。
きれいな映画館でした。
スーツにちょうネクタイの係員が真新しいじゅうたんを引いた通路を案内してくれます。わたしは、髪を振り乱し、肩から雨が滴り落ちています。なんだか係員にすまないような気がしました。
扉を開けると映画は始まっていました。暗い教会の中で、例の女性に神父が話しかけています。
「幸福になりたいんだね」
わたしは愕然としました。
まるで雷に打たれたカラスのようでした。神父に自分の悩みを見抜かれたような気がしたからです。そう思って、闇に慣れてきた目で辺りを見まわすと、どの席もどの席も男女の二人連ればかりです(少しおおげさです)。空いた席はありません。なるほどこれだけでもわたしが幸福になりたい理由はありました。もちろん(急いで付け加えますが)、わたしの悩みはそれだけではありませんでした。
わたしは足もとを見ました。傘の先から雨水が垂れて靴の中へと落ちています。
わたしはため息をつきました。それから、終わりまで、扉にもたれたまま、映画を見ました。
暗い映画でした……ロシア人のアンドレイという男が女性とイタリアのある村を旅しています。アンドレイは、故郷への、焦がれるような切ない思い(これがノスタルジアです)にとらえられ、女性の優しい心に応えることができません。
女性は去ります。
村にはドメニコという男がいました。ドメニコも世界を救いたいという焦がれるような思いを抱いていました。ところが狂人扱いをされています。かつて、世界の終末を信じて、家族を七年間、家に閉じ込めて出さなかったからです。
二人の男は知り合いになります。ドメニコはアンドレイに世界を救う方法(村にある温泉の端から端をローソクの火を消さずに渡り切ること)を教えてローマに演説にでかけます。演説を引きます。
「世界が前を向くことを望むなら手に手をとって一つになろう。いわゆる健全な人も、病める人も。健全な人よ、何があなたの健全さなのか?……どこに生きる?現実に生きず、想像にも生きぬのなら。世界は再び一体となるべきだ。ばらばらになりすぎた。原初に戻ろう。道をまちがえたところに戻ろう!何という世界なのだ。狂人が恥を知れと叫ばねばならぬとは!」
そう言ってドメニコは焼身自殺を遂げます。
アンドレイは世界を救うべく温泉に行きます。ローソクの火が風に消えそうになりながらアンドレイは温泉を渡ります。全編のクライマックスです。その後に強い印象を残すラストシーンです。村の廃墟となった大聖堂の地面にアンドレイと犬が座ってこちらをじっと見ています。二人の目は深く悲しげです。しかし遠くの何かを見通すような強さが感じられます。背後にはロシアのアンドレイの家です。雪が降り始めました。雪は家の屋根に降り積もって行きます。
「ああこれがノスタルジアなのだ」と思いました。
あることに焦がれるほど切ない思いを抱くことの意味が少し分かりかけて来たようでした。わたしはこの風景を忘れまい、この風景のように生きよう、と思いました。世界はアンドレイによって救われたかもしれません。でも、一番救われたのは、このわたしだったのです。
わたしはこの心をもって神戸の友人に会いました。
友人は聞いてほしいことがあると言いました。驚きました。わたしが悩みを聞かされることになったからです。しかし友人の悩みは前向きの悩みでした。結婚したい人がいる。お互いに心は同じである。相手の父親は反対をしている。自分は父親を説得して新しい生活を始めようと思うが、どうだろうか、ということでした。
港で風に吹かれている友人の顔はいくぶん上気していました。緊張した、いい顔です。
答えは自ずから出ています。うらやましくなりました。わたしは映画のラストシーンを思い浮かべました。
あの風景を生きたいという気持ちがもう一度こみ上げて来ました。
わたしは友人を励ますと、静かに神戸を離れました。