後ろ姿の少年に5 【隠れ家】
【隠れ家】
いったいに、わが家には何故そう呼ぶのか分からない、ものの呼び名があった。玄関の靴を脱いで上がる板の間を「あがりはな」と言い、次の間を「でい」、さらに奥の座敷を「へえや」、外との仕切り障子の外側の下(つまり軒下のことか)を「さもと」、それから母屋の向かいにある二階建ての納屋のことを「こい」と呼んだ。
わたしはこの呼び名がきらいだった。まずその間の抜けたことばの響きである。「さもと」、「こい」、「あがりはな」あたりまでならまだ許せる。だが「でい」「へえや」とは何事か。こんなだらだらした、意味の分からない、にぶいことばを使っているから、わが家は人に馬鹿にされるんだ。ふつうに六畳間とか八畳間とか呼べばいいじゃないか。そう思っていた。だが、今ではこの意見もかなりの修正が必要だということは分かっている。「でい(出居)」や「へえや(部屋)」は由緒ある呼び名だと、後に知ったからである。だが、あの少年の頃、母や祖母が、百年一日のごとく、古いことばを何の反省もなく繰り返し使っていることが、わたしには許せなかった。おそらくわたしは、そのことばに代表される、村の古い考えや習慣から、逃れ出ようとしていたに違いない。もちろん、母も祖母も逃れ出たいとは思っていたかもしれない。だが、悲しいかな、母や祖母は、たとえ一部とはいえ、いつの間にか村の考えや習慣に絡め取られて、しかもそのことに気づいてさえいないように思われた。
その例がうわさ話である。村ではとかく、うわさ話が多く、誰でもそのうわさ話に加わっていないと、いずれは自分が仲間はずれになって、どこかでうわさされることになる。しかもこのうわさが本(もと)になって村の世論を形成することになるから厄介なのである。とにかく村のしきたりはこのうわさ話から始まる。残念ながら村人の例に漏れず、母も祖母もうわさ話は好きだったのである。
二人は仕事の終わった夜遅くに、囲炉裏端に腰をかけ、どこどこの誰々さんちは、嫁に逃げられたそうだとか、あそこのうちの爺さんは、人目を盗んで境木(さかいぎ)を枯らすから気をつけなければいけないとか、馬頭様(ばとうさま)の向かいの家の下の子は、小さいくせに抜け目がないから末恐ろしいとか、とにかくそんなうわさを延々と続けて倦むことがなかった。
わたしは人のうわさが大嫌いであった。人のうわさをしていったい何になろう。人のうわさをする人々の間から建設的意見が出てきたためしがないことを、わたしは経験的に知っている。うわさ話は、結局は時間つぶしか、せいぜいがうさ晴らしか、うまくいってお互いが現状を認め合うくらいで終わるのである。わたしはこんなことに決して時間を使うまいと、厳しく自分を戒めたものだった。今にして思えば、どうやらわたしは自分を生きづらい方、行きづらい方へと追い立ててしまったもののようである。
いずれにせよ、わたしが望んだのは、できるだけ人に煩わされずに、ひとり静かな時間を過ごしたいということだけだった。それが実現できたのはひとえに「こい」があったおかげである。
「こい」には、買ってもらった少年誌が置いてあった。少年誌は、小学校二年生のころに時々買ってもらえるようになってから、買い物のついでに自分で買って帰れるようになったときまでを合わせて、かなりな冊数にのぼっていた。少年誌が「こい」に置かれる前までは、手伝い仕事のひまひまに、わたしはそれを何度でも飽かずに読み、かつ、出てくるマンガを、時間をかけて丁寧に描き写していた。それが母の目について、このままでは、わたしが取り返しのつかぬボンクラになってしまうのではないか、この子には何か勉強をさせて、この家を盛り返してもらわなければならない、と母は考えたらしい。ある日、わたしを呼んで、マンガばかり読んでいると馬鹿な子になる。少しは読むのを控えて勉強もしなさい。おまえは男なのだから、何とか一旗上げて、この家を盛り返してほしい。ついてはこれまでのマンガは全部、箱にしまってしまうからそのつもりでいなさい。勉強に成果が出たらもう一度考えてあげる。と、こう申し渡したのだ。そう申し渡したばかりでなく、わたしの見ている前で、母は最新号を一冊だけ残すと、あとの少年誌はみかん箱二つにどんどん詰め込んで、「こい」の二階に上げてしまった。
(言い忘れたが、「こい」は一階が仕事場で、二階が物置であった。また二階に上がる階段はなく、梯子を使う。その梯子が無暗と長くて重いので、小学生のわたしが梯子を掛けて上がることはまず絶対に不可能だった。実は梯子を掛けようとして梯子の間に顔を入れ、やじろべえのごとくふらふらよろけ、危うく首の骨を折りそうになったことがあるが、これは内緒にしてある)
わたしは母がうらめしかった。そうして「こい」の二階の窓を、毎日もの欲しげに見上げては、ため息をついた。
ある日、学校から帰って来ると、どうしたことか「こい」に梯子が掛け放しになっている。
『しめた』
わたしは、自分の家にもかかわらず、忍び足で玄関に走り寄り、まるで空き巣のように中の様子をうかがった。幸い母も祖母もいないらしい。「あがりはな」の床板に白墨(今のチョーク)で「上ノ畑ニ行ッテイマス。オソクナルカモシレナイノデ、オフロハワカシテオクコト。オヤツハチャブダイノ上ニサツマイモガアルヨ(ナカヨクワケルコト)」とある。ちゃぶ台に目をやると、なるほど、ふかしたサツマイモが皿の上に五つ、六つのっている。その中の一番大きなやつを手に取って、わたしは「こい」に向かって駆け出した。風呂をわかすには少し早すぎたし、姉が中学から帰って来るには、まだ間があった。「こい」を探検するには絶好の機会である。
わたしは、わくわくしながら梯子を一段一段、上って行った。上がり口は二階の床に四角に空いているから梯子を上ってそこから顔を出せば、二階の四方が見渡せる。わたしは恐る恐る顔を出した。
あるある。顔を出したすぐ右のほうに、件(くだん)のマンガ入りのミカン箱が、確かに二つ置いてある。とりあえずほっとする。ほっとすると、今度はほかのものが目に入って来る。ミカン箱の先に、古くなって破れた布団が積み上げてある。そのわきに、ワラで編んだ 丸い俵のふたが、三つ四つ、散らばっている。
反対側に目を移すと、養蚕関係の道具が雑然と並べてある。天井近くまで積み重なった「このめ」(蚕だなの木枠のこと)、糸巻きの山、縄の束、折り重なった莚(むしろ)などなどが、所狭しと置いてある。わたしはさっそく、ワラのふたを二枚取って座布団代わりとし、布団の山によりかかって、ミカン箱の中からわななく手で大事な大事なマンガの本を一冊一冊取り出して眺めると、もう止められない。自分が今どこにいて、どんな状況にあるかなどということはすっかり忘れて、ただもう本に夢中になってしまうのだ。
しばらくして
「まなぶ、まなぶ。上にいるんでしょう? 返事をしなさい」という姉の声で、はっと我に返った。いつの間にか姉が帰ってくる時刻になっていたらしい。姉は家の中にわたしがいないのを心配して探しに出てきたのである。「こい」に梯子がかかっていたので、これは、と思ったに違いない。
いったいに、わが家には何故そう呼ぶのか分からない、ものの呼び名があった。玄関の靴を脱いで上がる板の間を「あがりはな」と言い、次の間を「でい」、さらに奥の座敷を「へえや」、外との仕切り障子の外側の下(つまり軒下のことか)を「さもと」、それから母屋の向かいにある二階建ての納屋のことを「こい」と呼んだ。
わたしはこの呼び名がきらいだった。まずその間の抜けたことばの響きである。「さもと」、「こい」、「あがりはな」あたりまでならまだ許せる。だが「でい」「へえや」とは何事か。こんなだらだらした、意味の分からない、にぶいことばを使っているから、わが家は人に馬鹿にされるんだ。ふつうに六畳間とか八畳間とか呼べばいいじゃないか。そう思っていた。だが、今ではこの意見もかなりの修正が必要だということは分かっている。「でい(出居)」や「へえや(部屋)」は由緒ある呼び名だと、後に知ったからである。だが、あの少年の頃、母や祖母が、百年一日のごとく、古いことばを何の反省もなく繰り返し使っていることが、わたしには許せなかった。おそらくわたしは、そのことばに代表される、村の古い考えや習慣から、逃れ出ようとしていたに違いない。もちろん、母も祖母も逃れ出たいとは思っていたかもしれない。だが、悲しいかな、母や祖母は、たとえ一部とはいえ、いつの間にか村の考えや習慣に絡め取られて、しかもそのことに気づいてさえいないように思われた。
その例がうわさ話である。村ではとかく、うわさ話が多く、誰でもそのうわさ話に加わっていないと、いずれは自分が仲間はずれになって、どこかでうわさされることになる。しかもこのうわさが本(もと)になって村の世論を形成することになるから厄介なのである。とにかく村のしきたりはこのうわさ話から始まる。残念ながら村人の例に漏れず、母も祖母もうわさ話は好きだったのである。
二人は仕事の終わった夜遅くに、囲炉裏端に腰をかけ、どこどこの誰々さんちは、嫁に逃げられたそうだとか、あそこのうちの爺さんは、人目を盗んで境木(さかいぎ)を枯らすから気をつけなければいけないとか、馬頭様(ばとうさま)の向かいの家の下の子は、小さいくせに抜け目がないから末恐ろしいとか、とにかくそんなうわさを延々と続けて倦むことがなかった。
わたしは人のうわさが大嫌いであった。人のうわさをしていったい何になろう。人のうわさをする人々の間から建設的意見が出てきたためしがないことを、わたしは経験的に知っている。うわさ話は、結局は時間つぶしか、せいぜいがうさ晴らしか、うまくいってお互いが現状を認め合うくらいで終わるのである。わたしはこんなことに決して時間を使うまいと、厳しく自分を戒めたものだった。今にして思えば、どうやらわたしは自分を生きづらい方、行きづらい方へと追い立ててしまったもののようである。
いずれにせよ、わたしが望んだのは、できるだけ人に煩わされずに、ひとり静かな時間を過ごしたいということだけだった。それが実現できたのはひとえに「こい」があったおかげである。
「こい」には、買ってもらった少年誌が置いてあった。少年誌は、小学校二年生のころに時々買ってもらえるようになってから、買い物のついでに自分で買って帰れるようになったときまでを合わせて、かなりな冊数にのぼっていた。少年誌が「こい」に置かれる前までは、手伝い仕事のひまひまに、わたしはそれを何度でも飽かずに読み、かつ、出てくるマンガを、時間をかけて丁寧に描き写していた。それが母の目について、このままでは、わたしが取り返しのつかぬボンクラになってしまうのではないか、この子には何か勉強をさせて、この家を盛り返してもらわなければならない、と母は考えたらしい。ある日、わたしを呼んで、マンガばかり読んでいると馬鹿な子になる。少しは読むのを控えて勉強もしなさい。おまえは男なのだから、何とか一旗上げて、この家を盛り返してほしい。ついてはこれまでのマンガは全部、箱にしまってしまうからそのつもりでいなさい。勉強に成果が出たらもう一度考えてあげる。と、こう申し渡したのだ。そう申し渡したばかりでなく、わたしの見ている前で、母は最新号を一冊だけ残すと、あとの少年誌はみかん箱二つにどんどん詰め込んで、「こい」の二階に上げてしまった。
(言い忘れたが、「こい」は一階が仕事場で、二階が物置であった。また二階に上がる階段はなく、梯子を使う。その梯子が無暗と長くて重いので、小学生のわたしが梯子を掛けて上がることはまず絶対に不可能だった。実は梯子を掛けようとして梯子の間に顔を入れ、やじろべえのごとくふらふらよろけ、危うく首の骨を折りそうになったことがあるが、これは内緒にしてある)
わたしは母がうらめしかった。そうして「こい」の二階の窓を、毎日もの欲しげに見上げては、ため息をついた。
ある日、学校から帰って来ると、どうしたことか「こい」に梯子が掛け放しになっている。
『しめた』
わたしは、自分の家にもかかわらず、忍び足で玄関に走り寄り、まるで空き巣のように中の様子をうかがった。幸い母も祖母もいないらしい。「あがりはな」の床板に白墨(今のチョーク)で「上ノ畑ニ行ッテイマス。オソクナルカモシレナイノデ、オフロハワカシテオクコト。オヤツハチャブダイノ上ニサツマイモガアルヨ(ナカヨクワケルコト)」とある。ちゃぶ台に目をやると、なるほど、ふかしたサツマイモが皿の上に五つ、六つのっている。その中の一番大きなやつを手に取って、わたしは「こい」に向かって駆け出した。風呂をわかすには少し早すぎたし、姉が中学から帰って来るには、まだ間があった。「こい」を探検するには絶好の機会である。
わたしは、わくわくしながら梯子を一段一段、上って行った。上がり口は二階の床に四角に空いているから梯子を上ってそこから顔を出せば、二階の四方が見渡せる。わたしは恐る恐る顔を出した。
あるある。顔を出したすぐ右のほうに、件(くだん)のマンガ入りのミカン箱が、確かに二つ置いてある。とりあえずほっとする。ほっとすると、今度はほかのものが目に入って来る。ミカン箱の先に、古くなって破れた布団が積み上げてある。そのわきに、ワラで編んだ 丸い俵のふたが、三つ四つ、散らばっている。
反対側に目を移すと、養蚕関係の道具が雑然と並べてある。天井近くまで積み重なった「このめ」(蚕だなの木枠のこと)、糸巻きの山、縄の束、折り重なった莚(むしろ)などなどが、所狭しと置いてある。わたしはさっそく、ワラのふたを二枚取って座布団代わりとし、布団の山によりかかって、ミカン箱の中からわななく手で大事な大事なマンガの本を一冊一冊取り出して眺めると、もう止められない。自分が今どこにいて、どんな状況にあるかなどということはすっかり忘れて、ただもう本に夢中になってしまうのだ。
しばらくして
「まなぶ、まなぶ。上にいるんでしょう? 返事をしなさい」という姉の声で、はっと我に返った。いつの間にか姉が帰ってくる時刻になっていたらしい。姉は家の中にわたしがいないのを心配して探しに出てきたのである。「こい」に梯子がかかっていたので、これは、と思ったに違いない。
作品名:後ろ姿の少年に5 【隠れ家】 作家名:折口学