宴と影―第2話―
演奏を他の客たちと共に聴くと言い残し、薄いピンクのドレスは客達のなかに紛れて行った。
先生は、演奏に夢中で、いつ、パーティホールからメイがいなくなったのか分からない。この屋敷の使用人たちに聞いても、メイの行方の手がかりを知る者はいなかった。
「困ったなあ、ゲストはほとんど帰ってしまったし、伯爵も夜会の最中は忙しそうだったからメイを見たかなんて覚えていないだろうな」
ふらりと、先生はホールを出た。
「あ、エンジェリー様。ちょっとよろしいですか?」
先生を呼んだのは、この屋敷のメイドだった。用件を聞くと、先生の知人からの伝言を預かっているという。
「で、その内容は?」
「大切な話があるので、東棟の三階の客室〈花の間〉に来て欲しいということです」
「わかった、どうもありがとう」
怪しげな呼び出しには、あまり応じたくはなかったが、いなくなったメイと関係があるかもしれないと思い、先生は東棟へ向った。
東棟の一番端に設置された大きな階段で三階に着いた先生は、〈花の間〉と書いてある扉を見つけた。
扉の大きさからして、部屋はとても広い間取りになっていると先生は予測した。
ノックをしてみると中から、
「はい、どうぞ」
と、女独特の高い声がした。メイの声ではないが、聞き覚えがあるものだ。
「失礼します」
扉を開け、中に入る。部屋の照明灯は一つもついていなかった。
その代わり、部屋の中と外を遮断するガラス戸から、月光が射しこみ明かりの役割を果たしていた。
それにより、先生は待ち人の姿が見ることができた。
「お待ちしていましたわ、エンジェリーさん」
と、ネメキス子爵令嬢、ベロニカは嬉しそうに言った。
「あなた、でしたか」
先生はそう言うと、ベロニカは、はいと笑顔で答える。
「驚きました。子爵と一緒にお帰りになったのではなかったのですか?」
「実は、夜会の途中から、少し気分が悪くなっていましたの。それでこちらのお部屋で休ませて頂いていたのです」
と、彼女は腰掛けていたベッドから立ち上がり、先生のそばに寄る。
そこで先生は、ベロニカは肩を露出させた白いネグリジェ姿であることを初めて知った。男ならば、心臓が一瞬はね上がるほど興奮する姿だった。
「それで……大切なお話とは何でしょうか?」
先生の問いかけに対し、ベロニカは答えた。
「ねえ、エンジェリーさん。――私を、そばに置いてくださらない? あのお嬢さんの代わりに」
女の目には、父親から受け継いだ強欲さが漂っていた。
伯爵家西棟一階にある一室。物置として使われているその部屋に今、本来存在しないものがあった。
「誰か! どなたかいらっしゃいませんか!」
それは、音楽家の弟子である少女・メイ。部屋の向こう側へ大声を出している。
同時に、扉もドンドンと叩いたが、返ってくる反応はない。
彼女は、先生が最後の演奏する前から、ここにいる。
先生と別れたメイは、伯爵家の使用人から、先生の客が来ているという伝言を受け取ったのである。
客が待っているはずのこの部屋の扉を開けた途端、彼女は何者かに背後から押し込まれた。ふり返った時には、鍵をかける音と、部屋の前から急ぎ足で去る靴の音がした。
誰が、何のためなのかは不明のまま、メイは閉じ込められてしまったのだ。
助けを呼ぶ声は、まだ届かないと判断したメイは、扉から離れた。こんなに大声を出しても、誰も来ないということは、夜会は終わっていないのだろうか?
「本当に……困りました……」
床に置いてある箱に腰かけたメイがそう呟いた。
早くここから出なければ、先生の演奏が終わってしまう。
いや、それよりも夜会が終わった後、先生はどこかへ出かけてしまうかもしれない。
そっちの方が重大だ。明日も、別の街で演奏の仕事があるのに、行方をくらませるなんてことあってはならない。
弟子の少女は、自由すぎる師匠のことを考え、ため息をついた。
ベロニカは、自分の容姿に自信を持っていた。
にっこり微笑むと、男の視線を一瞬で集め、上品に挨拶をすれば、美しいという言葉をかけられる。
父親から、仲良くするように言われた子爵や小国の王子などは、彼女が近くに寄っただけで顔を赤らめた。
さりげなく彼らの手に触れ、親しげに話せば後日、また会いたいという手紙が必ずベロニカに送られてきたのだ。
私の美貌はどんな男にも、通用するようにできている。
もちろん、目の前にいる天才音楽家にも――。
「よろしいでしょう、エンジェリーさん」
ベロニカは、先生に一歩近づく。
「あのお嬢さんより、私と一緒にいたほうが、エンジェリーさんにとって楽しい日々を送れると思いますわ」
幾人の男の心を揺らした艶かしい視線を向けると、先生の口元が緩んだ。
「ベロニカ嬢……」
「はい、エンジェリーさん――」
「せっかくですが、お断りいたします。私にとって、今でも十分楽しい日々を送れていますので」
この先生の言葉を、ベロニカは一瞬聞き間違えたのかと思った。
今までの男たちと同じように、彼はもう自分の虜になったはずなのだ。
「それに、メイくんは私にとって教えがいのある大事な弟子です。未来のある弟子を途中で捨てるなんてこと、私にはとてもできません」
(どういうこと? 本当に私の美貌が通用していないの?)
驚愕している子爵令嬢に、先生は夜会の時に見せた笑顔で言った。
「ではベロニカ嬢、私はこれにて失礼いたします。お体、どうぞお大事に」
「ちょ、ちょっと! エンジェリーさん――」
呼び止めようとするベロニカだったが、音楽家は背を向け、扉へ歩き出した。
「待って……待ってください!」
音楽家の足は止まらない。何とかして止めないと、部屋から出てしまう――。
お父様や召使たち、親しい貴族や王族の人々が讃えた私の美貌を、無視して去ろうとするなんて……許さない!
ベロニカの頭の中は、音楽家を止めることと、無礼な音楽家に対する怒りしかなくなった。
そんな状態の彼女は、ベッド脇のサイドテーブルに置かれた水差しを手にした。
両手でそれを持ち直すと同時に駆け出し、音楽家の後頭部にめがけて振り下ろす――!
―― 続く ――