小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

坂の上のアパート

INDEX|1ページ/1ページ|

 
『坂の上のアパート』

 四月の中頃、サオリは久しぶりに故郷の函館に帰った。妹のネネから電話が来て、母親のユウコが病気だということを告げられたのだ。
 電話の翌日、サオリは始発の電車に乗った。
故郷に近づくにつれて、過ぎし日々のことが蘇ってきた。函館は彼女の青春、そのものだった。
 電車は海沿いの駅に着いた。風が海から吹きよせていて、少し冷たいが心地よい。駅を出ると、タクシーで行こうかどうか迷ったが、歩いて病院に行くにした。
 病院は坂の上にあった病院の近くには、昔、サオリが愛の日々を送ったアパートがあるはずであった。そのアパートを去って、もう十年が経つ。全てが遠く過ぎ去り風化した。今は乾いた砂のような記憶しか残っていない。サオリは少なくともそう信じていた。しかし、本当にそうか。過ぎぎ去った時間が何だったのか。あらためて確かめたかい気持ちにかられ、病院に行く前にアパートを訪ねることにした。

 サオリは高校を卒業すると、地元の銀行に入った。それと同時に函館で一人暮らしを始めた。緩やかな坂の上にあるアパートを借りた。アパートは古い鉄筋建で、部屋は二階にあった。六畳一間だった。部屋から海が見えた。休みの日には、暇なときはぼんやりと海を眺めて過ごすのが好きだった。
 就職して半年後の秋で恋に落ちた。取引先である地元でも有数の建設会社の男だった。偶然に街で出会い、食事を共にしたのが始まりだった。それから何度かデータした後、好きだと告白され体を許してしまった。簡単に許してしまったのは、彼に父親の面影を見たこととセックスへの好奇心があったせいである。男は父のように堂々として威厳があり知性もあった。やがて何度か肌を重ねるうちに本当に恋するようになり、同棲を始めた。会社を終えると、男が帰ってくるのを料理して待つようになった。彼には別居中の妻子がいたが、そんなことはどうでもよかった。いつか、ハッピーエンドで自分の恋のドラマが終わると信じていた。そして幸せな家庭生活が始まることを夢見ていた。甘美な夢だった。今となっては、とても苦い夢だが。サオリは夢の中で一つ一つ少女の衣を脱ぎ捨てて大人になっていったのである。

 かつて住んだアパートは駅から歩いて二十分のところにあったはずだったが、実際行ってみると、アパートはなかった。
 サオリはほっとした。長かった恋の季節は、切ない思いで幕が閉じた。もう二度と恋はしたくないと思ったほどの切ない別れだった。その思い出が詰まったアパートが現実にあったなら、切ない思いが鮮やかに思い出され、きっと耐えられないのではないかと思ったのである。だが、そのアパートは消え、思い出は蘇ることなく記憶の底に沈んだままとなった。
 アパートはマンションに変わっていた。当時あった周りの古いアパートもほとんど消えていた。街も人とともに変わるのだ。何もかも立ち止まらない。全ては流れてゆく。悲しいような、嬉しいような、不思議な気持ちにサオリは襲われた。

「ねえ、どうしたの? 明日来るはずじゃなかったの?」
「何を言っているの、お母さん、今日と言ったでしょ」
「今日は何日?」
「十五日よ」
「もう五日も過ぎたのね」
 少し溜息をついた。ゆっくりと起きた。サオリはその仕草をしばらく見ていた。少し涙が出てきた。というのも、いつの間にか、とても老けたような感じがしたからである。
「お母さん、寂しい?」
「そりゃ……ね、独りで病院にいるのは寂しいわよ」
「ずいぶん、素直ね」
「ネネは?」
「帰ったわよ」
「どうして?」
「急ぎの仕事があるんだって、電話がかかってきたの。でも、あれは会社からじゃないわね、きっと」
「誰から?」
「男からよ、きっと。ネネは子供の頃から嘘をつくのが下手だった。あなたのように、楽しいことや悲しいことを胸のうちにしまって置くことができないの」
「私は嘘つき?」
「誰もそうとは言っていないでしょう。サオリ、あなたはとても芯の強いけど、ネネはとても弱いわ、私はそれが心配で……」
「お母さん、心配しないで、ネネも十九よ。思っているほど、弱くはないわ」
ユウコは首を振った。
「私はこの頃、夢を見るの」
「どんな夢?」
「とても悲しい夢……誰かが死ぬ夢よ、そして誰かが泣くの」
「病気のせいよ。治れば、そんなことは忘れるわ」
 ユウコは首を振った。
「いいえ、正夢よ。死ぬのは私なの」
「どうして、そんなことを言うの?」
「死ぬのよ、私は……」と涙ぐんだ。
 ユウコは神経質な人だった。何か思い込むと、どんどんその泥濘にはまっていく人だった。一度、妄想にとり付かれたら、それから抜け出すことは容易ではなかった。小さいときからサオリは何度も見てきたから驚かなかった。
「お母さんに限らず、誰も死ぬわ」とサオリは呟いた。
ユウコは応えなかった。
 サオリは窓の外を見た。雪が降っていた。
「もう、すぐに春だというのに、まだ雪が降っている」
沈黙が続いた。
「函館の街も変わったでしょ?」
「変わった……とても変わった」とサオリはしばらく間を置いて答えた。
「ねえ、聞いていいかしら?」
「なあに? お母さん」
「どうして、あなたは函館の街を離れたの?」
 サオリは黙っていた。
「男ね」
十年前、サオリは黙って函館の街を去った。
「……そうかも」
 ユウコはくすっと笑った。
「みんな、男に苦労するのね。私も苦労したけど」。
「そうよ、男も女で苦労するの。それが女の宿命というものかもしれないわ」
「そうね。でも、サオリ、ネネもそうだけど、出来るなら苦労しないで、幸せになって欲しいわ。それが私のたった一つの願いなの」
「良い人と出会って、幸せになりたい。ずっとそのことだけを夢見てきたけど、なかなか叶わないのよ」と笑った。
「高望みし過ぎていない?」
 サオリは照れ臭そうに首を振った。
 ふと、あのアパートで暮らしていた頃のことが蘇った。どこか甘美で、胸の締め付けられるような日々。男の帰りを待っていた日々、あの恋が実ったとしたら、今の自分はどんなふうに変わっているかを考えてみたが想像ができず、サオリは笑った。
「何がおかしいの?」とユウコは聞いた。
 サオリは「何でもない、何でもないわ。十年ってあっという間ね。過ぎた日の悲しみも、喜びも、みんな、この雪のように儚く消えるのね」と呟いた。


作品名:坂の上のアパート 作家名:楡井英夫