宴と影―第1話―
その静寂の中に流れるのは、ピアノの旋律。弾き手は燕尾服姿の金髪の男である。
夜会に招かれた人々の視線を浴びる彼が演奏しているのは夜想曲(ノクターン)だ。
音楽家である男自身が作曲し、この集まりのホストである伯爵からのリクエスト曲である。音楽家が最後の音を弾き終え、両手をひざの上に置いた。その次の瞬間、演奏を聞いていた人間のほとんどが拍手した。
ピアノ演奏の後、歓談の時間となった。パーティホールで、展開される話題は、ゴシップ、政治論、企業情報交換など多種多様だった。しかし、音楽家はそれらの輪の中には入らず、隅の方で黒髪の少女と話をしていた。
「いやあ、今日の演奏も無事に終わってよかった、よかった。お客さまにも喜んでもらえたし……」
「本当にそうですね――」
と、少女はため息まじりに言った。彼女は、薄いピンクのドレスを着て、華やかな場所の一員の格好をしている。なのに、その顔には疲労の色が浮かんでいた。
「メイ、どうしたんだ? 具合でも悪いのか?」
音楽家が少女に尋ねると、彼女はジロリと彼を睨んだ。
「弟子の体を心配するくらいなら、まずご自分の行動を謹んで下さい。先生が、いなくなる度に、私は――」
「分かった、分かった。今度から気をつけるよ」
その返事はこの場だけだと、メイは知っている。先日、同じ注意をしたのに、こっそり出かけてしまった事例がたくさんあるからだ。今日の昼間がまさにそうだった。
夜会が始まるまで部屋にいて下さい。出かけるなら誰かに行き先を告げてから言って下さい。そう音楽家に頼んだのだが、メイの頼みごとはどっちも聞いてはくれなかった。
音楽家が姿を消した部屋から、滞在中の屋敷内、そして外へ。メイは音楽家捜しに奔走した。そして夕暮れ時、街外れの塔で彼を発見したのだが――。
「気をつけてくださらなければ困ります。もしものことがあってからでは遅いんですよ」
「まあ、確かに」
音楽家は相槌を打ちつつ、心の中でこう言った。
(さっきの君みたいに、塔から落っこちる事態が起きないとは言い切れないからね)
幸い、音楽家がそれを助け、彼女が気を失っている間に、屋敷に戻ったのである。
「おお、エンジェリーさん。先ほどの演奏、お見事でした」
と、ラベンダー色の夜会服を着た男が二人のそばに来た。
口元に立派なひげがある彼は、この夜会のホストの伯爵だ。また、音楽家の仕事の依頼主でもある。
「お客様達に満足して頂けたようで、私も嬉しいです。このような素晴らしい場にご招待していただき、ありがとうございます」
「いやいや、礼を言うのは私の方です。あ、そうそう。実は先生に後ほど、もう一曲弾いて頂きたいのですが、よろしいでしょうか?」
「喜んでやらせていただきます」
伯爵は相手の返事に、満足そうに頷いた。
別の客の相手をしに、伯爵が去ると、今度は背の高い男が挨拶をしにきた。
年齢は、音楽家よりも十ほどの年上。自己主張の強い腹を目立たせないよう、夜会服をきちんと着こなしている。
「久しぶりですね、エンジェリーさん。まさか、今宵あなたの演奏を耳にできるなんて思いもしませんでしたよ」
「これは、ネメキス子爵。あなたもいらっしゃったとは」
和やかに始まった会話だが、そばで見ているメイの内心は、穏やかではなかった。
何故なら先生は、子爵のことを嫌っているからだ。
二人が初めて出会ったのは、数年前の子爵主催の園遊会だ。
その時、ネメキス子爵は先生に、自分専属の音楽家になって欲しいと頼んできた。だが先生は、彼からの申し出を断った。理由は、音楽は個人が独占するものではないと考えているからだった。
すると子爵は別れ際、先生に小切手が入った封筒を押し付けたのである。
音楽を愛する心を伝えるのではなく、金で何とかしようとした子爵の態度。それにより先生は、子爵を嫌いな人間の一人に加えた。
その後、何度か子爵から手紙が送られてきたが、先生は読まないままメイに全て処分させてきたのである。
「いやー、相変わらず素晴らしいですな! 私はまた聞き惚れてしまいましたよ」
「それは何よりのお言葉、ありがとうございます」
「ところで、エンジェリーさん。以前お話したあの件なんですが――」
「子爵、そのお話はお断りしたはずですよ」
先生は、微笑みを崩さぬまま子爵にそう言った。
「今でも、気持ちは変わっていません」
「左様ですか……。それはとても残念です」
子爵は、小さなため息をつく。
彼は、待てども来ぬ返事で、先生の答えは同じだと分かっているものだと、メイは考えていた。しかし、この様子からすると、そうではなかったようである。
「ああ、そうだった。ちょっとお待ちを……」
子爵が手招きで呼んだのは、黒のイブニングドレス姿の娘だった。顔は化粧で美しくなっているが、その両脇にある大きな耳は子爵のものと似ていた。
「これは、私の娘のベロニカです」
「初めまして、エンジェリーさん。あなたとお会いできて光栄ですわ」
子爵の娘は微笑んだ。メイには、その微笑みが、まるで自分がいかに魅力的な女であるかを見せつけているかのように見えた。
夜の闇が一層深くなってきた頃。
パーティホールにいる人々を前に、先生は伯爵からリクエストされたピアノを弾いていた。都合で帰宅した客がいたため、演奏を聞く客は減っていた。
ネメキス子爵とベロニカも、帰ってしまった人間の一人だ。何でも、次の日に大切な仕事が控えているからだという。
子爵たちが去った後、先生は完全にホッとした気分にはなれなかった。
あのしつこい子爵が、こうもあっさり帰るなんて信じられないことだったのである。
おまけに子爵の娘が気のせいか、ジッと見ていたようだった。例えるなら、獣が獲物を狙っている感じだ。更に、傍らにいたメイと挨拶をした後、令嬢は彼女を見下すように見ていた。恐らく、女としての魅力は自分の方が上だと、令嬢が判断したからだろう。
(勝気な美人とは、皆あんな人ばかりなのかな)
目の前から遠ざかっていく子爵たちの後ろ姿を見ながら、先生はふとそんなことを思った。それから、メイと共に何人か他の客達と歓談していく内に、子爵たちのことが頭から次第に消えていった。
最後の音がホール内に響き、静かな拍手が鳴る。これが、夜会の終了の合図となった。
客はそれぞれ挨拶や、帰る前の短い会話をして屋敷を去っていく。先生も、客に挨拶や伯爵から最後の演奏の賛辞に耳を傾けるのに忙しかった。
だがその間、先生は何かがおかしいな、と思った。
ホールの人数が少なくなった時、先生は何がおかしいかはっきり気づいた。
いつもガミガミ言ってくる弟子の姿が見えないのだ。
―― 続く ――