クレイジィ ライフ
1.5 触れた理由
初めは、そのまま立ち去るつもりだった。
鼻腔を掠めた香りが、すべてを狂わせたのだろう。
雨が降りしきる繁華街路地裏。
出会い頭に売られた二度目の喧嘩を、透は辛くも相手を昏倒させて収拾させた。ゴミ捨て場に倒れこんだ相手―金髪の美しい男が起きてくる様子はない。殺気とともに斬りかかってきた相手の様子は、初めから可笑しかった。
まず格好が可笑しい。着ているシャツの釦が一個ずつずれていた。それで大体どこかでてきたのか想像ができた。
そして常に顔を顰めてどこか痛みに耐えている様子だった。前方を睨みつけるような眼光は手負いの獣の瞳に似ていた。何者も寄せ付けず、触れることを許さずに。必死にナニカを守っているように見えた。
透は気絶して目を閉じている顔を見る。色濃い疲労が滲んでいた。だからといって、殺されかけた透がなにかをしてやる義理はなかった。面倒事に巻き込まれる前に立ち去ろうと立ち上がる。その時、不意に掠めた香りが透の足を止めた。
顔を限界まで顰めた透は小さく唸ったあとで、金髪の男の方を振り返る。憎々しい仇敵を見つけたように鋭く睨みながら、ヤケクソ気味に言う。
「酒臭い!」
ああ、酒。酒か、酒だな、酒だよな、うん。
透は顔を押さえて蹲った。自分の悪癖が疼きだしたのを感じた。胸中が重くなり始める。透自身その感情の名が罪悪感だと知っている。このまま立ち去ろうとしている自分に対して湧き上がる嫌悪感。
「ああ、もう・・・」
ふいに自分は何をやっているのだろうと、客観的な視界が開けた。
雨が振り続ける、薄汚れた細い路地裏、生ごみの饐えた匂いが立ち込めるゴミ袋の上には動かぬ喧嘩の相手。そしてその傍で途方にくれたように膝をついている自分は朝帰り。
湧き上がった強い衝動に従って、透は傍にあった壁に頭を強打した。
目の奥まで暗む衝撃と激痛で、疲労と眠気でまどろんでいた身体に喝が入る。
親の形見のように相手を睨みつけながら脇下から手を差し込んで身体を持ち上げる。少し危惧したが、相手が起きる様子はなかった。息を吐いた透は足早に歩き始めた。
数年前、透は友人の死体に触れたことがあった。
布団の上に安置された死体。部屋は間接照明のオレンジ色の明かりがささやかに点されていた。
目を閉じているだけで出会ったことのない他人に思えるのが不思議で、そっと手を伸ばす。
なにより驚いたのは、その冷たさだった。生前笑い、息を切らし、共に雨にも濡れたことがある身体は、もう熱を宿していなかった。生きるために熱を燃焼させる必要がなくなったからだと透はその時ぼんやりと思った。触れても押し返されることのない生気を失った肌に触れる。
もう動かぬ手を掴みながら思う。
ならばこの手から熱を奪って、命の息吹を奪ってしまえばいいのに。
目を閉じた友人が、もう二度と笑わないなど透はどうしても信じることができなかった。
死因は急性アルコール中毒。
それ以来、透は意識を失くした酔っ払いどもの世話役になった。