妹の結婚
ウェディングドレスは、Aライン。
とはいえ背中側にはひらひらしたレースがついておらず、胸元もシンプルなラインに違いない。おかげで露出はデコルテだけに抑えられており、至極上品な印象を与えている。ここから見える装飾は、すこし右側に寄った位置で結い上げられた髪に添えられた小さな真珠だけだ。
可憐な後ろ姿をとっくりと眺めたあと、彩子は開いたままになっていたドアに再びノックをする。郁子が振り返ったのを確認して、そっと扉を閉めた。
「なんで?!」
化粧がまだ施されていない顔が容易く驚きを映し出す。
「お母さんお父さんは遅れるそうよ。渋滞に巻き込まれたみたい」
「あぁあ……だから泊まっていってって言ったのに」
「そうもいかないんでしょう。お母さんたちにも都合ってものがあるんだから。それに、式自体の開始時間にはまだ間があるし、雅和さんにはわたしから伝えておいた」
だから郁子は安心して。最後にそう締めると、鏡に映った眉が寄せられた。眉間に皺が出来て、おおよそ花嫁らしくない表情になる。幼いころとほとんど変わらないように彩子には見える、普段はパックだのエステだのと騒ぐくせにこんなときばかりは顔の至る所に皺が寄るのも辞さない顔。唇をへの字に曲げたので、ついでにえくぼまでが動いた。
「彩子はしっかりし過ぎだと思うの」
「そう?」
「それだから、妹より結婚が遅れるんだよ」
「……それは言わない約束」
「去年付き合いはじめたひととはもう別れたんでしょう」
「わたし、話したっけ?」
「話さなくてもだいたいわかるもの」
一方の郁子は、結婚相手とは一年も付き合っていないことを彩子は知っている。両親がそれを知らないことも。
姉妹共通の知り合いたち(九割はいとこたち)によれば、郁子は恋多き女なのだそうだ。勿論一面から見ればそのとおりで、彩子が高校二年生にしてひとつ上の先輩へ半ばストーキングのような片思いをしていたころ、中学三年生の郁子はもう明るい色の服を着て薄く化粧をして微笑めば若さだけで振り返る男がいることを覚えていた。以来、毎年変わった郁子の恋人役たちから、なぜ彼女が今年の歯医者を選んだのか彩子にはもうよくわからなかった。
わからなくとも姉妹仲は変わらなかったのが彩子にとっての救いだった。勤めはじめてからも彩子は実家住まいを続けていたが、郁子が大学入学と同時にひとり暮らしをはじめていたから、一時期は何週間も彼女の部屋に入り浸っていた。郁子も拒まなかった。ふたりでいておしゃべりがはずんだり、四六時中べったりとくっついているようなことはなかった代わりに彩子は郁子を見た。聡明で明るく、決して卑屈にならない、うつくしい妹。それだけでしあわせだった。
郁子ならどんな風にでも輝けると思っていた。自分はずっと、後ろからそんな彼女を見ているのだと思っていた。なのにもうすぐ、妹は容易くも離れていってしまう。父の腕からもうひとりの男の腕の中へと、もたれかかるようにして引き渡されていく。
(こんなにも綺麗なのに)
しばらくの沈黙のあと、郁子が先に表情筋を緩めた。肩ごしに彩子を振り返る。
「ねえ、お姉ちゃん」
「なんでっ?!」
「なんでもいいじゃない」
「あんたにお姉ちゃんって呼ばれるとサブイボが立つんだわ」
「うわあ……お姉ちゃん下品だよ」
「やめてって!」
どちらかといえば同級生のような気安さにおいて、ふたりの口調まで未だにどこか似通っている。今や女が多勢を占める家族特有の投げやりな調子をまだ残す彩子に郁子がつられることはもうないのだけれど、記憶を遡ったところで彼女がお姉ちゃんと呼んだ場面もない。
加えて言うならば、彩子にはお姉ちゃんと呼ばれたくない引け目がある。
「お姉ちゃん?」
「郁子、あんた喧嘩売ってるでしょ」
「ええ」
「ええ、て」
「お姉ちゃん、あたし綺麗かしら?」
「なにそれ、口裂け女?」
「おねーえちゃーん」
「いい加減にして、郁子」
「……こんなときなのに、彩子がお世辞のひとつも言わないから」
それに、花嫁が綺麗なのは当たり前だから、今ならあながちただのお世辞でもないわ。声に苛立ちを込めはじめた妹の、剥き出しになった肩に指を這わせた。
「お世辞、か」
「それとも、お世辞でも言いたくないの?」
何かを言わなければならない。きっと、今こそがその瞬間だ。
しかし彩子は何も言えないで、鏡の中、輝かんばかりに美しい郁子と視線を合わせられずに、ぽつり、目尻から大粒の涙が滑り落ちた。
幼稚園のころ、郁子だけは特別だと思っていた。迷子になった郁子を真っ先に見つけ出すのはいつだって彩子で、あのきらきらをまわりのおとなたちはどうして見失ってしまうのだろうとしょっちゅう訝しがっていた。小学校に上がるとほとんどのこどもたちを同じものとして見るからくりを理解できるようになってきたが、彩子だけは郁子の輝きを分かっていたからそれでよかった。長じるにつれて今度こそほんとうに誰もが郁子を振り返るようになったとき、しかしどうやら自分では気づかないらしい郁子が隣に立たせる男たちはどれも彼女に霞んで、彩子の目には透明人間も同然だった。
いつだって眩しすぎたから、後ろから見守るだけでいいと決めてきたのに。
「綺麗に、決まってる」
郁子の答えはない。俯いた彩子も答えを見出さない。ただ指に力を込めて、今まで声に出さず囁いてきたぶんの重みを重ねてゆく。
「あんたは、いつだって、綺麗だ。ずっと、わたしはここで、見てきたんだからーー」
先はもう続かなかった。
それでもせっかくのウェディングドレスを乱すような真似はしたくなくて、すこしずつ体勢を整えはじめたところへ彩子に手首を掴まれた。デコルテに沿って這わせるような動きを取らされる。
「……ッ」
「彩子」
滑らかな肌に、今更のように動悸が早まった。
「顔上げて。こっち、見て」
従わないわけにはいかなかった。彩子は呼ばれるがままに顔を上げ、鏡の中の郁子を見た。心から楽しそうに笑っている郁子。姉の手を握り締めて、胸元に導き入れようとする郁子。
「うれしい」
なんの衒いもなく彼女の唇を飛び出した言葉。頬から耳から首から、興奮のせいで紅潮している。
「今、悔しいでしょう。悲しいでしょう。あたしは今、すっごくうれしいのよ。だって彩子はずっと言ってくれなかったから、どうしてあげようってあたし、ずっとずっと思ってたの。だって彩子が、自分が悲しいのに忙しくて、あたしのほうなんてちっとも見てくれなかったから」
綾子はもう泣けなかった。それだけのために、と耳元で囁く声がした。それだけのために、妹が日々を投げ捨ててきたのだとしたら、咎は姉の身にあるに決まっている。郁子はきっと後悔はしていないと言うだろう。けれどもしも綾子が告げていたとしても、今日という日を迎えない保証はどこにもない。
郁子はかならず幸せになる。綾子のそばから離れて幸せになっていく。それでも彼女が悔やまないと思い続けてしまうのなら、悔やみ続けているのも同じことだ。綾子はもう聞いてしまった。だから郁子には忘れることがとてつもなく難しくなってしまったに違いないと、うぬぼれではなく綾子は知っている。
「……気は済んだ?」
「ええ」
とはいえ背中側にはひらひらしたレースがついておらず、胸元もシンプルなラインに違いない。おかげで露出はデコルテだけに抑えられており、至極上品な印象を与えている。ここから見える装飾は、すこし右側に寄った位置で結い上げられた髪に添えられた小さな真珠だけだ。
可憐な後ろ姿をとっくりと眺めたあと、彩子は開いたままになっていたドアに再びノックをする。郁子が振り返ったのを確認して、そっと扉を閉めた。
「なんで?!」
化粧がまだ施されていない顔が容易く驚きを映し出す。
「お母さんお父さんは遅れるそうよ。渋滞に巻き込まれたみたい」
「あぁあ……だから泊まっていってって言ったのに」
「そうもいかないんでしょう。お母さんたちにも都合ってものがあるんだから。それに、式自体の開始時間にはまだ間があるし、雅和さんにはわたしから伝えておいた」
だから郁子は安心して。最後にそう締めると、鏡に映った眉が寄せられた。眉間に皺が出来て、おおよそ花嫁らしくない表情になる。幼いころとほとんど変わらないように彩子には見える、普段はパックだのエステだのと騒ぐくせにこんなときばかりは顔の至る所に皺が寄るのも辞さない顔。唇をへの字に曲げたので、ついでにえくぼまでが動いた。
「彩子はしっかりし過ぎだと思うの」
「そう?」
「それだから、妹より結婚が遅れるんだよ」
「……それは言わない約束」
「去年付き合いはじめたひととはもう別れたんでしょう」
「わたし、話したっけ?」
「話さなくてもだいたいわかるもの」
一方の郁子は、結婚相手とは一年も付き合っていないことを彩子は知っている。両親がそれを知らないことも。
姉妹共通の知り合いたち(九割はいとこたち)によれば、郁子は恋多き女なのだそうだ。勿論一面から見ればそのとおりで、彩子が高校二年生にしてひとつ上の先輩へ半ばストーキングのような片思いをしていたころ、中学三年生の郁子はもう明るい色の服を着て薄く化粧をして微笑めば若さだけで振り返る男がいることを覚えていた。以来、毎年変わった郁子の恋人役たちから、なぜ彼女が今年の歯医者を選んだのか彩子にはもうよくわからなかった。
わからなくとも姉妹仲は変わらなかったのが彩子にとっての救いだった。勤めはじめてからも彩子は実家住まいを続けていたが、郁子が大学入学と同時にひとり暮らしをはじめていたから、一時期は何週間も彼女の部屋に入り浸っていた。郁子も拒まなかった。ふたりでいておしゃべりがはずんだり、四六時中べったりとくっついているようなことはなかった代わりに彩子は郁子を見た。聡明で明るく、決して卑屈にならない、うつくしい妹。それだけでしあわせだった。
郁子ならどんな風にでも輝けると思っていた。自分はずっと、後ろからそんな彼女を見ているのだと思っていた。なのにもうすぐ、妹は容易くも離れていってしまう。父の腕からもうひとりの男の腕の中へと、もたれかかるようにして引き渡されていく。
(こんなにも綺麗なのに)
しばらくの沈黙のあと、郁子が先に表情筋を緩めた。肩ごしに彩子を振り返る。
「ねえ、お姉ちゃん」
「なんでっ?!」
「なんでもいいじゃない」
「あんたにお姉ちゃんって呼ばれるとサブイボが立つんだわ」
「うわあ……お姉ちゃん下品だよ」
「やめてって!」
どちらかといえば同級生のような気安さにおいて、ふたりの口調まで未だにどこか似通っている。今や女が多勢を占める家族特有の投げやりな調子をまだ残す彩子に郁子がつられることはもうないのだけれど、記憶を遡ったところで彼女がお姉ちゃんと呼んだ場面もない。
加えて言うならば、彩子にはお姉ちゃんと呼ばれたくない引け目がある。
「お姉ちゃん?」
「郁子、あんた喧嘩売ってるでしょ」
「ええ」
「ええ、て」
「お姉ちゃん、あたし綺麗かしら?」
「なにそれ、口裂け女?」
「おねーえちゃーん」
「いい加減にして、郁子」
「……こんなときなのに、彩子がお世辞のひとつも言わないから」
それに、花嫁が綺麗なのは当たり前だから、今ならあながちただのお世辞でもないわ。声に苛立ちを込めはじめた妹の、剥き出しになった肩に指を這わせた。
「お世辞、か」
「それとも、お世辞でも言いたくないの?」
何かを言わなければならない。きっと、今こそがその瞬間だ。
しかし彩子は何も言えないで、鏡の中、輝かんばかりに美しい郁子と視線を合わせられずに、ぽつり、目尻から大粒の涙が滑り落ちた。
幼稚園のころ、郁子だけは特別だと思っていた。迷子になった郁子を真っ先に見つけ出すのはいつだって彩子で、あのきらきらをまわりのおとなたちはどうして見失ってしまうのだろうとしょっちゅう訝しがっていた。小学校に上がるとほとんどのこどもたちを同じものとして見るからくりを理解できるようになってきたが、彩子だけは郁子の輝きを分かっていたからそれでよかった。長じるにつれて今度こそほんとうに誰もが郁子を振り返るようになったとき、しかしどうやら自分では気づかないらしい郁子が隣に立たせる男たちはどれも彼女に霞んで、彩子の目には透明人間も同然だった。
いつだって眩しすぎたから、後ろから見守るだけでいいと決めてきたのに。
「綺麗に、決まってる」
郁子の答えはない。俯いた彩子も答えを見出さない。ただ指に力を込めて、今まで声に出さず囁いてきたぶんの重みを重ねてゆく。
「あんたは、いつだって、綺麗だ。ずっと、わたしはここで、見てきたんだからーー」
先はもう続かなかった。
それでもせっかくのウェディングドレスを乱すような真似はしたくなくて、すこしずつ体勢を整えはじめたところへ彩子に手首を掴まれた。デコルテに沿って這わせるような動きを取らされる。
「……ッ」
「彩子」
滑らかな肌に、今更のように動悸が早まった。
「顔上げて。こっち、見て」
従わないわけにはいかなかった。彩子は呼ばれるがままに顔を上げ、鏡の中の郁子を見た。心から楽しそうに笑っている郁子。姉の手を握り締めて、胸元に導き入れようとする郁子。
「うれしい」
なんの衒いもなく彼女の唇を飛び出した言葉。頬から耳から首から、興奮のせいで紅潮している。
「今、悔しいでしょう。悲しいでしょう。あたしは今、すっごくうれしいのよ。だって彩子はずっと言ってくれなかったから、どうしてあげようってあたし、ずっとずっと思ってたの。だって彩子が、自分が悲しいのに忙しくて、あたしのほうなんてちっとも見てくれなかったから」
綾子はもう泣けなかった。それだけのために、と耳元で囁く声がした。それだけのために、妹が日々を投げ捨ててきたのだとしたら、咎は姉の身にあるに決まっている。郁子はきっと後悔はしていないと言うだろう。けれどもしも綾子が告げていたとしても、今日という日を迎えない保証はどこにもない。
郁子はかならず幸せになる。綾子のそばから離れて幸せになっていく。それでも彼女が悔やまないと思い続けてしまうのなら、悔やみ続けているのも同じことだ。綾子はもう聞いてしまった。だから郁子には忘れることがとてつもなく難しくなってしまったに違いないと、うぬぼれではなく綾子は知っている。
「……気は済んだ?」
「ええ」