ハニィライフ
「ふう」
深夜から早朝まで入ったバーのバイトの後、午後からある授業のレポートを書き上げるために図書館へ籠った。
無事にレポートを提出して、独り暮らしのアパートに戻る頃には日が暮れはじめていた。
大半暮れた濃紺色の空を視界の端で捉えつつ、アパートの階段を上る。
築20年を過ぎた安アパ―トの鉄骨階段は老朽化しており、のぼると酷く軋んだ音を立てる。
L時に折れた建物の一番左端にある自室の鍵を開けて入る。
自室のやや窮屈だが安心できる空間内で、全裸の男が倒れていた。
「………」
よくよく見ると、全裸ではなかった。申し訳ない程度に穿かれた黒のボクサーを下にひっかけた男がシングルベッドの上で横になっている。
こちらに背を向けて眠っている男の背には色素の薄い蜂蜜色の髪が流れている。
肺の奥からため息をつく。もうため息をつくしかない。
「人が安寧を得ようとして帰ってきた自室の状態として、あんまりじゃないか」
ぶっと濁音がついた声がベッドの上から漏れた。筋肉がついた肩がくつくつと笑いの発作を耐えるように震え始めた。
目の端に涙を溜めた男は寝返りを打つ。
「あんまり面白い声で嘆くんじゃねえよ、ハニィ」
ああだめだツボった。男は長い髪をゆらゆら揺らしながら笑い続ける。
ハニィと呼ばれた青年は髪をかきあげる。
「今日は窓と玄関、どっちから叩き出されたい、ディジー」
「待って待って。どうしてタダでオレの肉体美を世間に公開しないといけないの? 金とりたいんだけど」
「頼むからもう黙ってくれないか。それにそのハニィっていうのはやめろ。俺はおまえのハニーなんぞごめんだ」
「そっちのハニーじゃないよ。変な男に強引に合鍵作らているにもかかわらず、未だに鍵を新しいものに代える気がない甘々で蜂蜜みたいな奴って意味だよハニィ。でさ、そのディジーって何」
「クレイジーと言いたいところが語呂が長い。短くしてデイジーだ」
「花の名前になってるんですけど? まあなんでもいいか」
「どうでもいいから早く服を着ろ。殺意を覚える」
「おまえの殺意は本物だからな。怖いったらないねえ」
皮肉としかとれない相手の呟きを無視して青年は鞄を机の上に置く。屈めた身体にしなやかな腕がまとわりつく。
背にディジーが鼻先をつけ、目を閉じている。
「なあ、ただいまのキスしてくれよ」
「脳外科へいけ。ストーカーどころか不法侵入者にくれてやるものなんてない」
ディジーは首筋に鼻先を擦りつけて甘えた声を出す。
「昼前から来てたんだ、寂しかったんだよ。なあおねがい」
サラサラと揺れる髪を青年は眺める。触り心地の良さそうな髪に触れると、絹のような柔らかな感触がした。
「ハニィ」
ため息をつき、唯一気にいっている髪に免じて目はつぶってやることにした。
吐息のような声が漏れて、唇を吸われた。濡れた悪戯な舌が唇をつつくので、仕置きをかねて少し強めに噛みついてやった。
イデデデと呟いてディジーは一度離れる。鼻をすんと鳴らす。
「透、汗かいたのか」
再び甘えるようにすりよってくるデイジーは徐に青年の本名を呼んだ。
透は少し意外に思いながら、ディジーの汚れひとつ見当たらない髪を梳く。
「昨夜はバイトだったんだ。匂うか」
「んーん。すりよらないと、しないから程度だから」
すんすんと鼻先を胸元に寄せる頭を、透は無表情に引き離した。
ひょんなことから出会ったディジーは一学生でしかない透に惚れ込んだ。
どうゆう出来事があったのか、思い出すのも億劫な透は遠い目をするだけで済ました。
簡単にいうならば、不機嫌が最高潮に達していた透に通常通りのディジーが突っかかり、無表情でキレた透がコテンパンにしばいた、ということだ。
その出来事のあと、ディジーは透にまとわりくようになった。
きっとこいつはマゾなんだと、透は半場どうでもいいと思いながら結論付けた。
やっと日常の雑務から解放された透はベッドヘッドに凭れかかり、最近発売された小説を開く。
小説を持った両手を、ディジーはひょいっと掴みあげる。透は首を傾げた。
ディジーは空いた透の胸と腕の間に身体を押し込むと、満足げに本を持った透の手を己の背に下ろした。
いろいろ言いたいことがあったが、意外にディジーが大人しくなったので、まあいいかと放置した。
胸元によりかかったディジーは背は透より小柄だが、歳は数個上に当たる。
寄せられた身体。透はディジーの太腿辺りに硬い感触を感じた。
これが温かければ窓を突き破ってでも放り出すのだが、当たっているものは冷たく硬い。
閉じていた瞳を開けたディジーは瞬時に、太腿にあったものを手の中で回転させ、銀色に光る刃物を出す。
手首の反動だけ投げられたナイフはカーテン横の壁に突き刺さった。
透がよくよくナイフの先を見つめると、黒い物体が突き刺さっている。
「ブンブン煩いんだよな、蠅の分際で」
ディジーは欠伸をしてまた横になる。透はきらりと光るナイフと目を閉じているディジーを交互に見つめたあと、息を吐いた。
どこから突っ込めばいいのか、判断しかねたらしい。
ナイフ扱いがとても得意なディジーは社会人ではあるが、どんな職業かは、押して知るべし。
『愛しているんだ』
初めてキスをされた時、目の前の男はそういいって柔和な表情を浮かべた。
透自身には付き合っている女性もいるし、彼自身ゲイの気は小指の甘皮ほどもない。
しかしその言葉は透の行動を最終的には曖昧にし、いい加減ながらもディジーを受け入れていた。
愛している、そう告げられたのが生まれて初めてだったからだ。
目の前の男の行動は破天荒だ。笑いながら破壊を続ける。クレイジー。
ぴったりなあだ名だと思っている。
しかし向けられる素直な思い、行動が透の普段覆っている心の柔らかいところを風が触れるように緩やかに撫でていく。
だから告げた。愛することなんてできない。それは既に捧げた思いだから。でも嫌ってもいない。
そう告げると、ディジーは笑い抱擁してきた。
嬉しい。そう言って一滴だけ涙を流した。
その思いを、透は理解することができない。