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そちらはお変わりありませんか

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『拝啓 木々もすっかり芽吹き、新緑の葉が生い茂る季節となりました。』
 薄暗い部屋の中で、一人、机と向き合う。
 筆をとり、あの人へ届くことのない手紙に一文字、一文字、丁寧に書き込んでいく。
 もし万が一、仮に、これをあの人がみたら、どういう反応をするかしら。
 もう何十年も会わなかったせいか、あの人の反応や顔が、ぼやけている。
 この手紙は誰にも見せないし、見せられない。私だけの秘密。
『さて、何故今さらになってこの手紙を送ろうとしているのか、といいますと、激情が過ぎ去り、私の中のすべてがとても穏やかだからです。』
 そう、全てが凪いだ帆のように穏やかなのだ。私の中のもの、すべてが。
 恋という激しい嵐が通りすぎ、愛という優しい風がやってきた。
『今、私は夫もいて、子供まで授かりました。貴方しか愛せない、と思ったのは幻影のようです。
現に、私は今夫を、子どもを愛しています。たぶん、それは時が解決してくれたのでしょう。』
 筆を置いて、ふと天井を仰ぎ見る。
『それでも、ふとした瞬間に思ってしまいます。もし、あのとき……と。』
 もし、あのとき……。
 もう何十年も昔のこと。私には心の底から愛している人がいた。
 でも、それは身分違いの恋というやつで、結ばれることはなかった。
 私は財閥の娘で、あの人は家の使用人。お父様は決して、二人の恋を許しはしなかった。
 それでも、愛を貫こうと駆け落ちをした。あの人さえいれば、何もいらなかった。
 若気の至り、というやつかしら。それでも、あのときは本気だった。一生懸命だった。縛りつけようとしてくるものから、必死で逃げた。
 もしかしたら、あれが、青春というものかもしれないわね。
 途中までは上手くいった。ただ……。ただ、悲しいことに、そこまでの覚悟が私たちに、いいえ、私にはなかった。
 大変であることは予想していたし、大丈夫だった。
 辛い逃亡生活。腰を落ち着けるところを見つけたと思えば、ままならない日々の暮らし。駆け落ち同然の私たちへの近所の目。
 辛いこと、大変であることは、あの人がいれば、まったくかまわなかったわ。
 でも、私たちの生活が成り立ちはじめたころに、私のお母様が倒れた、と耳にした。
 無視をすることはできなかった。一度帰れば、また、なんて甘いことはできないのもわかっていた。
 一度捨てた家族を、もう一度捨てることなんかできなかった。一度やったことなのだから、二度目も、と思ったわ。でも……。
『納得はしているのです。あれでよかったのだ、と。ふふ。何を書いているのでしょうね。』
 あの人が見ることはないから、許してください。どうしても書きたかったのです。夫、子どもに心の中で謝罪をする。
 これで、自分の中で区切りというものを、やっとつけられた気がした。
『だいぶ、話がそれてしまいましたね。元にもどします。
こちらは変わりありません。元気にやっています。そちらはお変わりありませんか?
敬具』