鬼と先生
ブルーのロングスカートの裾を翻し、でこぼこした道をつまずきそうになりながらも、足を止めなかった。
高い位置で結んだ黒髪を風に当てながら目指すは、寂れた塔。
昔、敵の接近を見張るために建てられた物見の塔の存在を、街の人間から聞いた。
そこに、彼女の探している人がいるかもしれないのだ。
塔は見つかった。沈んでいく太陽の光によって、三角屋根の塔は大地に何百年も昔の面影を映している。メイは塔の入口を見つけると、自らその中に吸い込まれるように入った。
じめじめした内部の階段を上がり、塔の頂上へ。
そこは、バルコニーのように柵で囲まれ、周辺を一周できるようになっていた。メイは柵から身を乗り出すようにして、塔の上を見る。
すると、三角屋根から黒い革靴を履いた足が垂れ下がっていた。
ああ、やっと見つけた!
「また、こんなところにいらしたのですね。先生」
と、メイは屋根の上のその人を睨む。
優雅に屋根の縁に座る金髪の男は、頬杖をついて街を見下ろしているようだ。白いシャツに緑の上着を羽織っているその男は、間違いなくメイの探し人だった。呼ばれるまで部屋でおとなしくするという約束を破った彼は、弟子の少女に笑顔を向けた。
「やあ、メイ。今日は随分早く私を見つけたね」
「何を言っているのですか! 夜会はもうすぐ始まるんですよ!」
メイが子供を叱るような口調で『先生』に言う。音楽家として有名なメイの先生は、国中の貴族から演奏及び作曲の依頼が次々とくる。今回も、この街に住む伯爵から、夜会でのピアノ演奏を依頼されたのだ。
「お屋敷へお戻りください。夜会のお客さまをお待たせしては、招待してくださった伯爵さまへのお顔がたちません。それに、先生の評判にも影響が……」
仕事のお供をできることは、弟子という立場上、一種の社会勉強になり、先生の役に立てる絶好の機会だった。が、それはメイ自身の肉体的、精神的疲労が重なる事態が高い確率で起こることも示していた。
先生は、仕事の直前にどこかへ出かけてしまう悪癖があった。行き先を誰にも告げず、誰にも気づかれないように外出する。
メイは、彼がいなくならないよう、常に注意を払った。先生ほどの有名人が消えたなんてことを、周囲に知られてしまったら、大騒ぎになる。
演奏を楽しみに待っているお客さまに迷惑をかけてしまう。そして、作曲の依頼主を不機嫌にさせ、仕事の依頼を取り消しになってしまうかもしれない。すべて、先生の評判を下げる事態を引き起こすものだ。
しかし、そんな彼女の苦労はいつも水の泡。先生に見張りをつけたり、彼の部屋を、窓の開かない部屋にしたりしても、先生は見事な脱走を果たすのである。
逃げられた後、メイは外へ飛び出し、自ら行方不明になった男を探すかくれんぼの鬼と化す。そして数時間後、疲れ果てた鬼を、脱走者は能天気な表情で迎える。これが、毎度の展開となるのだ。
「分かった、分かった。今行くよ」
と、先生は亀の歩みのような話し方をした。
そして屋根――地上数十メートルの高さ――から、ピョンと軽やかに飛び降りた。
「――! ちょっと、先生!」
真横を通過した先生に弟子は目を見張る。先生がこんな行動に出ることは何度もあったが、どうしても驚いてしまう。だって――普通、普通落ちたら無事で済む人間なんていないのだから! 私だってこんなところから落ちたら……。
その瞬間、メイは自分の状況の変化に気づけなかった。
先生の姿を追おうとして、自分の体の半分以上が柵を越えてしまったことを。
「キャ――!」
自分の悲鳴を耳にしてから、メイの視界は闇の中入った。
茜色と紺色のグラデーションで彩られた空を、金髪の男は飛んでいた。
「まったく、世話の焼ける弟子だ」
と、先生は軽いため息をついた。
彼の背中には、透明な翼があり、前方からくる風の影響を少し受けながらも、ゆっくりとはためかせている。両腕に抱えた弟子は、落ちたショックで気を失ったままだ。
「私が落ちても平気なこと知っているくせに、慌てて自分も落っこちるなんて。やはり、君はまだまだだね」
ぶつぶつと、メイに届かない説教をする先生。その目には、我が子を見守る親のような暖かさが宿っていた。
メイが必死になって探してくれたことに対し、先生は日頃感謝と同時に申し訳なさを感じていた。だが、どうしても抜け出すことを止められなかった。演奏する前や作曲作りが進まない時、先生は空中散歩をしていた。この気分転換は、誰にも干渉されないことで、解放感を楽しむのが重要なのだ。
(しかし、困ったな。少しずつだが、メイに見つかる時間が早くなっている……)
やがて目的地を見つけた先生は、浮かび上がった問題を一旦胸の奥にしまいこむ。
翼を力強く羽ばたかせ、スピードを上げながら、夜会の演奏に向けて気持ちを引き締めるのだった。