子供と鬼面
1
刻限は夜。空の端からほの赤い色が消え、青みがかった夜の気配がはやくも空を埋め始めている。影は暗さを増し、空の鏡のような月が、半日ぶりに輝きを取り戻していた。
耳に、木の葉の擦れるような音が、たしかに聴こえた。
彼は思わず立ち止まって、きょろきょろと辺りを見回す。
――いや、木の葉が風に吹かれたにしては、音が大げさすぎはしないか。
いまのは、それよりもっと大きなものが立てた音ではなかろうか。夏の初めの、かすかに湿り気を帯びた空気が、彼の幼く丸い頬に当たっては通り過ぎていった。
月は細く、周囲は暗い。
彼がどれだけ懸命に目を凝らしても、夜の撒く闇の壁は見透かせず、分厚く横たわっている。自分の爪先から視線がちょっとでも離れてしまえば、もういけない。道の傍らにはそこここに松明が置かれていたが、そんなものはなんの足しにもならなかった。丸く、浮き上がった明かりが赤く尾を引いて、ぽつりぽつりと間遠に並んでいる。風にやわらかくあおられ、揺れるそれらは鬼火か人だまのようにも見えた。
ふたたび、何かのはためくような、奇妙な音。
それもどこか身近に。
(嫌だなァ)
不安に駆られて誰何の声を上げるも、答えるものはない。
夜は怖いものだ。
いつもなら、こんな風に出歩くなど絶対にしない。ひと年に一度の祭りの賑わいが楽しくて、ついぐずぐずとしてしまったのが悪かった。もう少し早く、せめて空の赤いうちに切り上げておけば。
ここまで来てしまうと後にしてきた賑わいも届かなくて、心細い上に酷く淋しかった。
いまさら考えたところでもう遅い。
先刻の音はかさこそと、時折思い出したように鳴りながら、しつこく彼の耳を追いかけてくる。
なんだかわけもなく怖ろしくて、身体のなかのどこかが空っぽに寒くなっていくようで、彼は顔をうつむかせて歩いた。
そのまま顔を上げていたら、なにかこの世ならぬものを見てしまうような気がした。
太陽が昇って、やってきた朝がやがて昼となり、日がかげれば夕暮れが訪れ、灼けつくような黄昏のあとには夜が来る。神さまだか仏さまだか知らないが、なんとも嫌な時間をこしらえてくれたものだ。自分の周りが、こんなに不たしかに見えなくなるなんて。
彼はべそをかきそうになるのを堪えながら、こわばった動きで足を速めた。
夜という時間じたいはそれほど嫌いではない。暗くなるのが嫌だった。夜の連れてくる闇は怖い。どんなものも何もかも見えなくしてしまう。そこには、あらゆるものの隠れる余地がある。暗さの底の向こう側から、いきなり腕が生えて取って喰われてしまうかも知れない。ほんの数歩離れたところに、そういうものがいるかも知れない。ただ見えないというだけで。
彼がそう訴えると、大人たちは声を揃えて笑う。そんなことはないと請け負う。けれども怖いものは怖いのだから仕方がない。それに、大人たちの笑う声には一抹の空元気のようなものがありはしないか。滲むていどの怯え、不安、彼はいつでもそれを疑う。大人たちはいつだって嘘が巧い。
彼は思う、せめて夜がもう少し明るいものだったら。まだしも見下ろす自分の手足が見えるくらいに。踏み出す先が不安でなくなるくらいに。彼は小さく首をすくめる。
また、なにかの、さっと擦れるような音が。
考えて、彼は心のなかで首を振る。いいや、あれはもっと別のなにか、違うものが立てた音だろう、だっていまは風が吹いていないんだから。
彼が、気付いた事実に驚いたのと、先からの心細さと怖ろしさからついに駆け出そうとしたとき、一歩大きく踏み出した拍子に、背中に提げた祭りの土産がガサリ弾んだ。それは貧相な麻紐で彼の首に引っ掛けられている。
彼は立ち止まって、ほんの少しだけ迷ってから、それを首から外して顔にかぶった。ついさっき、祭りの出店で買ったものだった。小遣いをつかう贅沢で買ったものの、子供の目にも出来はあまり良くない。左右に空いた目の穴は小さくて窮屈だったし、口のところも不恰好で息をするたび顔に貼りついたが、かぶってみると不思議に心元なさが薄まった。暗くて淋しい夜のなかに、自分ひとりいるようではないように感じた。それとも、自分が人間の子供でないようにも。
その面が色ばかりは強そうな赤鬼の顔をしていたからだろうか。
彼はささやかな安心を顔に引っ掛け、足取りも軽く家へ向かって走りはじめた。
さて、怖くて仕方のなかった物音が、面をかぶるまで他ならぬ自分の背中で鳴っていたのだと気付いたのは、彼が息を切らせて家に飛びこんだ、ずっとあとのことである。
2004.6.28