一四時過ぎの、
うちの学校は水泳部がプール掃除をするのが一種の伝統になっている。
なんでも、インターハイまで出場した年の先輩が、プールを熱心に掃除していたからだとか。
それは俺が入学するよりもずっと前から、昔話のように語り継がれてきた話だった。嘘か本当かは確かめようもない話で、本当にいつ頃から始まったのかは知らないが、そうして水泳部は毎年プールの掃除に励んでいる。
一年前の夏が終ってから、少しずつ黒く深く濁ったプールの水に映る自分の顔を見て、思う。
どんなモノでもいい。自分もその舞台に、果てはその先に立てるのなら、そんなちっぽけな伝統だっておろそかにはしない。
少し毛先の抜けたデッキブラシを持ち直して、俺は濁り果てた水面に一礼した。
§
ごう、と暗い穴の中へ水が吸い込まれ抜けていく音が、隣のグラウンドにまで届く。
六月の初めの晴れの日、十四時過ぎの日差しはまだまだ夏のようにはいかず、緩やかに辺りを照らしている。梅雨の到来を告げる雲はまだ遠く、けれども空気はじわじわと湿気を帯び始めて肌にまとわりついた。
中高一貫のこの学校に入学してから、五度目の季節のことだった。
ゆっくりと水が引いていくのを目で追いながら、俺はプールサイドに居並ぶ後輩たちに簡単な手順を説明する。あれこれと細かいことは体で覚えれば良い、と言って大まかなこと以外は全て端折って伝えた。
今年入学したばかりのあどけない一年生以外は慣れたもので、同年の奴らは揃いも揃ってうぃーす、と少し間延びした声をあげた。
最初は戸惑いに暮れても見様見真似で覚えるほうが早い。そう断言したのは引退した先輩だっただろうか。
妙に自信たっぷりだったその後ろ姿を、俺はよく覚えている。後輩もそうなっていくのかと思うと、なんだか可笑しかった。
自慢の種の50メートルプールは、健康な高校生男子の動きを鈍らせるぐらいには、広い。人数がいる分、一人ひとりの負担は少ないが、面倒なのには違いなかった。伝統だからと言われても、そうそう素直に動く奴は多くない。
ちらほらとやる気の見えない集まりにやれやれと肩をすくめた。隣で困った様な笑顔を浮かべて、副部長が大げさに溜息をついた。
「あー……、終わったら辻センセイがアイス奢ってくれるって言ってたっけかなぁ」
ぼそっと小さく独り言のように呟かれた言葉に、にわかに色めきたつこいつらは、本当に単純だった。
「ダッツ?」「いや辻セン貧乏性だからそれはない」「スイカバー」「カップで良いよ俺」「何サマだよ」「俺、アイスならなんでも良いわ」
あの顧問がね、と感心していると、一緒に頼んでくれよなと副部長はこっそりと舌を出した。影の薄くて神経質でひょろりと細い、およそ体育教師らしくない顧問は、きっと渋い顔をするに違いない。
なだめすかすのが大変だろうなと、グラウンドの向こうに白く佇む校舎を見上げた。ダメだったら割り勘で、と調子よく言い切る奴に苦笑を零す。俺が断らないのを、長い付き合いで知っているからこそ言える台詞だった。
仕方ないな、と奴のわき腹を小突いて、それにああと返した。
俺たちのやりとりを気にせずに、あれこれと勝手な希望を口にだし、パラパラと自分の持ち場へとビーチサンダルをつっかけて、部員たちが散らばっていく。
それを見届けた俺の肩にポンと手を置いて、副部長は今年もよろしくな、部長。と言った。
「おう」
今年初めの開会式だ、と二人で拳を合わせて、笑った。
§
六月の日差しはさほど強くはなくて、けれどこうしてゆっくり、確実に肌を赤く焼いていく。泳ぐ、ということを始めてから焼かれ続けてきた躰は、たった数カ月の冬ではうっすらと色を淡くするくらいでしかなく、相変わらず浅黒い小麦色だ。
冬の間に通い詰めていた室内プールの、白く高い照明に照らされていた他の白い肌は、幻のように見えて、まるで別世界へと潜り込んだような気がして落ち着けなかった。
日に焼かれるプールサイドの、うっすらと浮かび上がる陽炎が、俺にとっての現実だ。
水辺の生き物だけが、幻を洗い流しては塗り潰している。
変な日焼けの痕がついたら格好悪いよなぁ、とけらけら笑う部員たちは、冬の厚着が嘘のように全員半裸だ。
薄暗いロッカールームには、汗染みのついたシャツが脱ぎ散らかされていて、パーカーを羽織った女子たちに、バカじゃないのと容赦なく叱られていた。
男はこれだから、と言われてぐうの音すらでない。馬鹿にされたのが悔しいのか、それでもうるせぇと呟く男たちの声は弱かった。
きりきり働いてね、と言った彼女たちの声に従って、俺たちはデッキブラシ片手に水底へと降り立った。
ぬるりと滑る底を真水で洗い流すと、久しぶりに水色の底が覗いた。ブラシでこすり、水草を剥ぎ取り、塩素の混じった水を満たせば、待ち焦がれた水底がすっと視線に収まるのだと思うと、期待で胸が焦がれる。
夏の気配を探すこの瞬間が、たまらなく、好きだ。
――飛び込み台に立って、深呼吸をひとつ。
お守りのように携えたゴーグル越しに揺らめく水面を見据える。一瞬の静寂の後に、スタートを告げる短い笛の音が鋭く響く。
上がる水飛沫、水を切る音がプールサイドにこだまする。赤い背中に羽を生やして、水の中で先を行く自分の影を必死で追いかける、捕まえる――
白昼夢をキンと破る音が、高い空から鳴った。
思わず空を見上げた俺に、空の碧よりも下の青を見なさいよと野次が飛ぶ。薄くなびいた雲の隙間から一筋、飛行機雲が伸びていた。
瞬き一つの間に揺らいだ陽炎を掻き抱いて、俺は水底に立っている。
五度目の夏がすぐそこまで来ていた。
了