いそがなきゃ
予定日、とっく、過ぎた、まだ、切開、嫌だ。父と母は今日もうるさく口論をする。僕は僕のことしかわからないけれど、母が嫌な思いをしているのは、なんとなくわかる。この暖かい場所を与えてくれる母を僕は大好きだ。ゆらゆらと心地良いこの場所に、できることならずっといたい。けど、母に悲しい思いをさせているからといって父を嫌うことはできない。「すき」の表し方がちょっと下手なだけなのだから。
ある日、父でも母でもない他の誰かの声が聞こえた。そっと耳をすませてみれば、僕の分と母の分の心音が聞こえる。なんだか、ひどく不安だ。この優しい場所が奪われてしまうような気がして、でもどうしようもない僕は手をぎゅっと握って様子を伺うことしかできない。僕はひどく無力で、何もすることができない生き物だ。
このまま、危ない、今日まで。僕はこの場所を奪われるのではなく、出なければいけない。知っていたけれど、先延ばしにしていたけれど、どうやら母を苦しめていたのはその事みたいで。それなら、ここから出て母に泣いて謝ろう。全部忘れてしまうだろうけれど、これだけは絶対にするって約束するね。
名残惜しいけれど、暖かな羊水に抱かれ、何もしないでいる自分に別れを告げる。母を苦しませないようにできたらいいけれど、きっとできないだろうな。でも、少しでも楽にしてあげたいから、声にはならないけれど、母の愛に満たされた海の中で、小さく呟く。
「いそがなきゃ」