新月
「いゝか長。役者はナ、顔を見せて歩ッちゃいけねェのヨ」
「どうして? せんだってつれてってもらった芝居んときぁみんなとってもきれいでしたのに」
「あー……それはだなァ」
「房兄房兄っ! 向こうから笠ぁかぶった人がきます!」
新 月
ハテ、日本橋芳町でもあるまいに、と房之助は思った。
今日は正月で八つになった弟の長吉を連れて南伝馬町へ買物に来ている。
重陽の節句も過ぎた、夕方の時分である。
「こら長、大声出すんじゃあねェ」
「なぜです。あの人はナンデ笠ぁかぶってるか教えてくだっし」
自分たちが歩いている道の向こうから、まわし男を連れた役者が歩いてきた。舞台子であろう。藤色の地に白い花を散らした振袖が暮れ時の空と同化して、被っている編み笠と、編み笠の下につけている黒い頭巾の色ばかりが浮いている。
興味津々の長吉は、不躾な視線を送ったまま房之助の手をぐいぐいと引っ張る。
「房兄ぃ、きれいな姉さんですねぇ」
「……あゝ、そうだなァ」
互いの距離は既に五間も無い。
舞台子を女と思っているらしい長吉の声に吊られ、自然と房之助の歩調も緩む。
長月の夕暮れ時は、短い。もう空が夜を連れてきている。
互いの距離は三間も無い。
「アッ——!」
不意に、舞台子の下駄の歯が鈍い音を立てて折れた。やや早足で歩んでいた舞台子はその衝撃をもろに受け、大きく肩が傾く。三味線を抱えるまわし男は商売道具を放るわけにもいかず、哀れ舞台子は房之助と長吉の前で派手に転けた。
「大丈夫かえッ?」
繋いでいた長吉の手を離し、条件反射のように持っていた風呂敷包みを長吉に放り投げると、房之助は舞台子に駆け寄っていた。思わぬ事故に慌てたまわし男は、「千之丞!」と舞台子の名を呼んで直ぐ様三味線の箱を地面に置く。
兄に続くように駆け寄る長吉が、舞台子の名前に黒目がちの目を瞬かせた。名前で彼が男であることに気付いたのだろう。
転けた弾みで編み笠を手放した千之丞は、掠れた唸り声を上げたまま動かない。
「オイ、おめェ……」
「あにさん、わっちがやります」
千之丞を抱き起こそうとした房之助の肩をまわし男が掴んだが、既に長吉が千之丞の傍にしゃがみ込んで肩を軽く揺らしている。
道が大通りから外れた場所であったことが幸いしたか、野次馬は一人もいない。
「役者さん、役者さん、起きねぇな……よう、起きねぇな」
房之助とまわし男が目を丸くしている間に、千之丞の肩を幾度か叩いた長吉が、風呂敷包みを地面に置いて丁寧な手付きで側に転がる笠を取った。長吉の呼びかけに意識が戻ったのか、千之丞が伏せていた顔を緩慢に上げる。
「わぁ! 房兄! 役者さんの口から血が——」
「千之丞ッ! エゝこれから座敷だと言うにこのッ」
露になった千之丞の顔を覗き込むなり、長吉が声を上げる。転けた拍子に唇を切ったのだろう。紅をさしている唇の端から血が垂れている。
房之助は、千之丞が心配で今にも泣き出しそうな長吉の横にしゃがみ、左手で長吉の肩を抱きながら右手を千之丞の頬に伸ばした。指先に白粉の粉が薄く付く。その感触に、千之丞の上下の瞼が動き、ゆっくりと目が開いた。
新月だ。
瞬間、房之助の胸中に、新月の夜の風景が浮かび上がる。
未だ焦点の定まっていない瞳の黒さ、瞳のふちの目張りの紅さ、目張りを導く目の形の美しさに、房之助は息をのんだ。
「あ……」
「千之丞! 振袖汚しやあがってッ! 起きゃあがれッ!」
ようやく我に返った千之丞に、まわし男の鋭い叱責が飛ぶ。その叱責にびくりと肩を竦ませ、無理に身を起こした千之丞は軽い目眩に見舞われてはたりと両手を地につけた。
「ごめんなんし——」
「謝って済むなら十手ァいらねぇ。謝る前ェに起きるこった、そら!」
「——ウ……」
眼前で繰り広げられる厳しい光景に、房之助も長吉も言葉が出ない。長吉に至っては瞳を潤ませ、房之助の肩にしがみついている。しかし、意を決したらしい。長吉が、居ても立ってもいられぬという様子でまわし男の腰に縋り付いた。
「あにさんごしょうですっ、役者さんをいじめないでくだっし」
「あゝ悪ィがこっちも商売。坊には目の毒だ。そこなあにさん、お手間を取らせて堪忍。こいつァこっちで立たせます。コラ千之丞! 起きねェ!」
打ち所が悪いのだろう、千之丞はまわし男の叱咤を聞きつつも中々起きられない。
その様子に、房之助はハタと顔を上げる。
「あにィさん、この役者、今夜はどこの座敷へ出るんだエ」
「ナニ、そこな大店のご隠居が惚れてる扇也って色子のゼンザでござんす。こいつぁドウモ体も気も弱くッていけねえ。馴染みが全然つきやせん」
「アゝ、酒造のご隠居……。——どうだい、この役者、おれが買おうか」
房之助の言葉に、千之丞の肩が跳ねる。白粉で塗られているにも関わらず、表情にはありありと動揺の色が見てとれた。
「ナニ、おれらの前で転んだは観音様のお導き。見れば上等の下駄だ。滅多なことでは折れるめぇ。ご隠居は勝ち気な色子が好きと有名。ならばその役者、おれが買おう。ご隠居にはモット勝ち気で豪気な色子でも用意したがいゝ」
ナァ、千之丞とやら、と、房之助が千之丞の顔を覗きこむ。長吉は既にまわし男の腰元を離れ、嬉しさから周囲を跳ね回っている。
「……旦那、本気かェ……。悪ィがあんたらにアシがあるたぁ——」
「あにさんあにさん、おれんちァあっちぃ行った前田屋だよ。房兄は次男で、おれは三男の長吉です!」
「ま、前田屋のお坊ちゃん?!」
自慢げに自己紹介をした長吉の計らいが功を奏したか、まわし男の顔色が変わる。房之助の父が営む「前田屋」は、尾上や市川ら役者たちの口に上る程繁盛している呉服屋だ。
三人の話を聞いていた千之丞の頬が心無しか紅潮している。無理も無い。今をときめく前田屋の次男坊の座敷に呼ばれたとなればハクがつく。
「これはこれは、重なるご無礼平にご容赦さっしゃりませ。お坊ちゃん、そうと決まりゃあ早速と言いてェが、ほんにこいつでいゝのかエ。舞はそこそこだがしゃべりがどうにもいけねェ。お坊ちゃんにならもっといゝのを——」
「いゝんだ。おれァこの千之丞が気に入った。あにさんの言う『もっといゝの』をご隠居にくれてやれ」
「……お坊ちゃん、ありがとうございます……」
「オウ、起きたか千之丞。いゝっていゝって。気にすんねェ」
起き上がった千之丞は漸く人心地ついたのか、房之助に丁寧な辞儀をし、胸元から懐紙を出して口を拭って再び編み笠を被った。その様子を長吉は不思議そうに眺めていたが、分かれ道まで一緒に歩いたまわし男の説明に合点がいったらしい。小難しい顔で納得する。