ひとり
洋子は背が高く、足がほっそりとして長い。美貌でどこか理知的な雰囲気がある。実をいうと、彼女はファッションモデルなのだ。モデルをして十五年になる。
彼女ほどの器量良しなら親しい男性の一人や二人いても可笑しくないのだが、彼女のプライドが高いのか、それともわがままな性格のせいか、今は恋人がいない。三十二歳という歳である。さすがの美貌も影がさしてきた。本来なら焦りが見えてもいいところだが、そんな様子はない。反対に焦っているのは、一緒に暮らしている母親の方である。母親が何度か見合い話を持ってきたが、少しも見向きもしない。
バツイチで子持ちの小沢という男が洋子の前に現れた。一目惚れしたといって、デートを申し込んできた。
「何を思っているの。バツイチで子持ちの男なんか相手にしない」と簡単にあしらったにも係わらず小沢は諦めかった。深夜にも電話をかけてよこした。何とか追い払いたかった。追い払うだけなら、無視すればそれで良かったが、なぜが、友達の恵子が彼を好きになってしまったと告白したのである。そして、一度でいいから、三人で一緒に飲み会をしようということを提案してきたのである。
「一人で生きていくのに疲れたの」としみじみ恵子が言った。
「洋子、あの人を諦めさせてほしいの。そうすれば私の方を向くわ」と恵子が頼んだので仕方なしに三人で飲み会を開くことにした。場所は安い大衆酒場であった。
「付き合ってくれ」と小沢は洋子に言った。
洋子はにべもなく「私は一生、結婚しないの。モデルとして生きていくから」と答えた。
「それは昔の話だろう。今の君の美貌も劣えた。また芝居も歌の才能もない」と小沢は断言した。
そこまで言うことはないだろう。そもそも何の権利があって、そこまでぼろくそに言うのか。そう思うと洋子は腹がたち、「大きな御世話よ」と頭からビールをかけた。しかし、小沢は怒らなかった。
洋子は酔っ払い、「私がアル中だから諦めなさい」と小沢に毒づいた。
飲み会を終えた後、小沢は洋子を家まで送った。
泥酔している姿の洋子を見て、母親は呆れてなじると、
「酔ったふりよ。あの男も騙された。馬鹿な男よ」と礼を言わず、家の中に入った。
モデルに求められているのは人形のような美しさである。美しさは年齢との闘いである。誰にも言わなかったけれど、洋子は、自分が曲がり角にきていて、限界に達していることに気づいていた。
突然、恵子が結婚して引退すると言い出した。その結婚相手を聞いて驚いた。小沢ではなかったのだ。
「あなたは小沢さんが好きだったと言っていたじゃないの?」
「何を言っているの。小沢さんが好きなのは、洋子、あなた一人よ。本当のことを言うと、小沢さんに頼まれて、あなたが小沢さんとデートするように仕向けたの。ごめんね。小沢さんはとても良い人よ。子持ちだけど」
「ずいぶんと手の込んだことをするのね」と洋子は呆れた。
「ごめんなさい。小沢さんのこと、怒っている?」
洋子は微笑みながら、「怒ってなんかいない。それより結婚、おめでとう」と言ったが、激しいショックを受けたことを隠せなかった。十五年一緒にやってきた友である。それが明日から全く別の世界にいくのだ。
「小沢さんのことより、むしろ、あなたのことを怒っている。ずっと一緒にやって来たのに。隠し事しないと言っていたのに……どうして本当のことを言ってくれなかったの?」
「寂しかったのよ。とても心が寂しかった。独り暮らしをしたことのないあなたには分からないでしょうけど。誰かがそばにいないと、ふとこのまま死んでしまうのではないかという恐怖に襲われるの。若いときはそんなことはなかったのに。三十を超えて、自分の弱さも、限界もいやというほど分かった。母親が死に、そして年々父親が老けていくのを見て、とても切なくなったの。だから何かに頼って生きたいと思っていた。それが昨年の冬、彼が現れたの。ちっともハンサムでもないし、お金持ちでもないし、こんな人とは結婚しても良いことはないと思っていた。それがね、いつのまにか、この人で良いと思うようになった。彼が故郷で農業すると言ったとき、一緒に行くのを決めたの」
「いつ東京から離れるの?」
「来週」
「そんなに早く!」
「早く離れた方が早く吹っ切れると思って」
誰も知り合いはがいない、遠く離れた島根に嫁ぐという。そして結婚式は身内だけでささやかに挙げるという。
「生まれた北海道からみれば、東京も島根も一緒よ。そこで幸せを掴んでみせるわ」
「もう、会えないの?」と洋子は泣きながら言った。
恵子はうなずいた。そして彼女の頬からも涙が流れた。
二人で泣きじゃくった後で、「洋子はずっと独りでいるつもりなの。寂しいわよ。余計なお世話よね。ごめんなさい」と最後に言って去った。
数日後、洋子は「どうして、わたしに惚れたの?」と小沢に尋ねた。
「君が背広についていた糸くずをとってくれたから」
「そんなことで? 少し軽率すぎない」とたしなめた。
「いいんだ。それで、君のことが少し分かった。細かいことに気づく人だって。俺はどちらかというとアバウトな人間だから。それに、いつだったか、雨の日、雨に濡れている老婆に傘を貸していた。優しい人だと確信した。棘の刺さったような、きつい言い方は欠点だけど。女房に死なれて、正直、女遊びも飽きた。これから慎ましくとも幸せな日々を歩みたいと思った」
洋子はこんな素直な男は見たことがなかった。呆れた。それでいて、どこかほっとさせるものを感じた。
「わたしは何もできないわよ」と洋子が言った。
すると、彼は快活に言った。
「そこにいてくれるだけで嬉しい。自分が生きるバネが欲しいんだ」
「生きるバネ? 子どもがいるでしょう?」
「子どもじゃ駄目だ」
ずっと友達だった恵子が島根に嫁ぐという話をしたら、母親は「人は独りじゃいきられないのよ、洋子」と言った。
「生きられるわよ」と洋子は反論した。
「あなただって、もう三十三よ」
「歳のことは言わないで」
「ずっと独りで生きていくつもり?」
「分からないの。どうしていいか」
「好きな人はいないの? いつか一緒に来たあの人は?」
何か心の奥底にあるものを見透かされたようで洋子はびっくりした。
「でも、子持ちよ」
母親は「何よ、子どもみたいに顔を赤らめて。いいじゃない、別に。それに多い方が楽しいわ」と笑った。