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天使と悪魔の修行 前編

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 街は夕暮れ時が近付いてきています。
 賑やかな繁華街の狭い道を、ママとユウキ君と、ユウキ君にしか見えていない¥ジェルちゃんがその後ろを少し遅れて歩いていました。

 やがてあるビルの前に止まると、ママが言いました。
「ユウキ、ママこれからお仕事だからいつものようにお利口にしてるんだよ。分かった?」
「うん」ユウキ君が淋しそうに頷きます。

 二人は手を繋いで狭い階段を上がって行きました。その入口の屋根の上には、小さな看板に『ちびっこの部屋』と書かれてありました。どうやらユウキ君のママは夜のお仕事のようです。そしてママがお仕事の間、ユウキ君はここの託児所で待っているみたいなんです。

 ユウキ君のママは、託児所の保育士さんにユウキ君を預けると、「じゃあね」とだけ言って、お仕事に行ってしまいました。

 ¥ジェルちゃんはもっとユウキ君とお話がしたかったので、一緒に託児所に残ることにしました。

 『ちびっこの部屋』には保育士の先生が三人いて、それぞれに子供たちのお世話をしています。ユウキ君が行った時には、やはり同じくらいの年の子が四人ほどいました。

 ユウキ君は先生とご挨拶をすると、部屋の片隅に行ってブロックで一人で遊び始めました。何だかそれがいつものパターンなのか、先生もユウキ君の行動を黙って見ています。
 
 他の子たちが嬌声を上げながら先生に抱きついたりしているので、とりあえずユウキ君のことは放っておくつもりのようです。

 ¥ジェルちゃんはしばらく部屋の様子を見ていましたが、思いついてユウキ君のそばへ行き、話しかけました。
「ねえねえ、ユウキ君。さっきの話だけど……」
「うん?」
「ユウキ君のママがユウキ君のことを可愛くないって……さっきそう言ったよね。どういうこと?」
「うーーん、ぼくにもよくわからないの。でもね、ときどきママがとってもこわいかおして、じいーっとぼくのかおをみていうの。かわいくないって……」
 そう言ったユウキ君の顔には悲しみがいっぱいでした。

「どうしてなんだろうねっ。ユウキ君はこんなに可愛いのに」
 ¥ジェルちゃんがそう言うと、ユウキ君は今度はとっても嬉しそうに微笑を浮かべました。

「ねえ、ユウキ君。ユウキ君のパパってどんな人?」
「ぼくのパパ……?」
「うん!」
「ぼく……ぼくね、パパっていないみたいなの……」
「えっ? いない……みたい?」
「うん」
 そう言うと、ユウキ君は俯いてしまいました。
 ¥ジェルちゃんは――あっ、これは聞いちゃいけないことだったんだ――と咄嗟に思い、そのまま黙り込んでしまいました。

 丁度その時、保育士の先生がユウキ君の方へ不思議そうな顔を向けました。

「……ん? ユウキ君、さっきから一人で何をブツブツ言ってるの?」
「……」

 ユウキ君は先生の言葉には答えず、顔を上げるとチラッと¥ジェルちゃんの方を見ました。すると先生もつられたように同じ方へチラッと視線を移します。しかし、当然何も見えないので、またユウキ君へ視線を戻しました。
 変だなあ……という顔をしています。

「――さあ、じゃあそろそろお布団に入って寝ようか?」
 先生はそう言いながらユウキ君を抱っこして、部屋の片隅に敷かれたお布団の方へ連れて行き、パジャマに着替えさせると一緒にお布団の上に横になりました。どうやらママが迎えに来るまでは、ここで眠って待つようです。

 ¥ジェルちゃんも何だか急に疲れを感じて一緒に眠ることにしました。

「あっ、ごめんごめん。トイレに行くの忘れてたね。さっ行こう」
 そう言うと先生はユウキ君をトイレに連れて行き、少しして戻ってくると、今度は本当にお布団の中にユウキ君を入れて、そばで添い寝してユウキ君の背中をとんとんし始めました。

 見ると他の先生も子供たちをお布団に入れて、絵本を読んであげたりしていました。
 いつしかユウキ君の目はとろんとしてきて、そのまま夢の世界に入ってしまったようです。¥ジェルちゃんも同様でした。

 それから数時間経った頃、託児所のドアが開き、少しばかり酔っ払った女の人の高い声が響きました。
「お待たせーー! 帰るわよーー」

 先生が慌てて玄関に行き、口元に人差し指を立てて静かにするようにと合図をします。せっかくぐっすり眠っている子供たちが起きてしまうからです。
 子供たちは幸いまだ眠っていましたが、¥ジェルちゃんはびっくりして飛び起きてしまいました。
 それから続々と子供たちのママが迎えに来て、ようやくユウキ君のママもお迎えに現れました。少し足元がふらふらしているみたいです。それでも先生に起こされたユウキ君が着替えを済ませると、その荷物を持ち、
「さあ、帰るわよ」
 そう言ってユウキ君を抱っこしました。
 ユウキ君はまだ半分眠っているような状態です。
「ママぁ……」
 寝言のように呟きました。

 二人は表に出ると、大きい通りまで歩いてそこでタクシーを拾いました。  
 外はすでに真っ暗です。しばらく走って、タクシーの黄色いライトが一つのアパートを照らして停まりました。

「お客さん、着きましたよ」
「ありがとう」
「いえ、こちらこそありがとうございました」

 ユウキ君のママが料金を払うと、タクシーのドアが開き、ママはぐっすりと眠ってしまったユウキ君を抱っこしてタクシーを降りました。

 するとタクシーの運転手さんが急いでママの荷物を降ろして言います。
「大変でしょう、子供さん眠ってるし。私が荷物を部屋まで持って行って上げましょう」
「まあ、すみません。助かります」

 ママは素直にお礼を言って、タクシーの運転手さんと共にアパートの階段を上がって行きました。
「ここなんですよ」
 203号室と書かれた部屋の前で、ママが運転手さんに言いました。そして、バッグから鍵を取り出すと、ガチャガチャと開け中に入りました。

 運転手さんが表で待っていると、ユウキ君をベッドに寝かせたママが出てきました。

「どうもありがとうございました。助かりました。良かったらお茶でも……」
 運転手さんから荷物を受け取りながらママがそう言うと、
「いいえ、とんでもないです。こんな時間ですし、お疲れでしょうから……。それに私はまだ仕事中ですしね。お気持ちだけで……」
「そうですか……」

 軽く頭を下げ、ママに背を向けて行こうとした運転手さんが、いきなりクルッと振り返りました。

「あ、良かったらまた呼んで下さい。その方が嬉しいので――」
 そう言うと運転手さんは胸ポケットから一枚の名刺を出してママに手渡しました。
「その携帯の方へ連絡貰えばすぐに迎えに伺いますから」
「分かりました。じゃあまたお願いしますね!」
「よろしく」
 そう言うと運転手さんは階下へ降りていきました。

「今時、珍しく親切な人だわ」
 ママはぽつりと呟き、急いでドアを閉めると部屋へと入っていきました。

 そのアパートは玄関から真っ直ぐに行ったところに小さな台所があり、その右手に並んで部屋が二つ、台所の手前にバスルームとトイレがありました。
 この2DKの部屋が二人の住まいのようです。