覆水盆に帰らず
『覆水探偵事務所』、と小さな看板が掲げられた事務所。その室内には、三人の人物が思い思いの格好で存在していた。目の痛くなるような真っ青のスーツ、その下には真っ白なシャツ、極めつけには胸ポケットに赤い薔薇を一輪挿した奇抜な服装の若い男は、部屋の隅に置かれたポットから、マグカップにお湯を注いでいる。お湯の色から見て、恐らくインスタントコーヒーを飲もうというのだろう。その男の背後には、今にも彼に蹴りを入れようとする体勢をとった、男よりも更に若い、小柄で細身の女性が立っている。彼女の表情は冷徹で、今まさに獲物を捕らえんとする気迫に満ちていた。室内にはもう一人女性が立っていたが、前述の二人とは離れて事務机に向かい、今しがた階下のポストから取り出してきた手紙類に目を走らせていた。彼女はきちんとしたスーツを着ており、長い髪は少女のように二つに結んでいる。が、どう見ても男に蹴りを入れようとしている女性よりも年上であろう。
その光景の一瞬後、夏の陽光の下に、鈍い打撃音と悲痛な叫び声がこだました。言うまでも無く、声の主は男、その原因は小柄な女性だった。男は端正な顔を苦痛に歪め、蹴られた腰を押さえつつ振り返った。
「美寿寿(みすず)さん……。痛いのですが……」
美寿寿と呼ばれた女性は足を下ろし、つまらなそうに口を尖らせた。
「当たり前だ。痛いように蹴ったのだからな」
「どうしてそんなひどいことを毎日毎日なさるんです? 私が何かしましたか」
涙目になりながら、男は問う。美寿寿は腕を組んで男を見上げながら、眉をしかめて答えた。
「何度言えば分かるんだ。私は覆水再起(ふくみず さいき)を一生憎むと決めたのだ。他ならぬ、お前をな」
「あの……前は『憎む』ではなく、『恨む』だったように思いますが」
「そうだったか? まあ、どちらでも変わりあるまい。ぐだぐだとうるさいのだ、お前は」
尊大な口調で剣呑に言いながら、美寿寿は再起の腹にパンチを食らわせる。流れるような自然な動作だったために受け損なった再起は、大げさに叫び声を上げながら腹を押さえた。
「まあ、私を憎むなら憎むで全然構いませんけれど……。痛いのは勘弁していただけませんか。仕事に支障が出たら困りますし、そうなれば貴女だって困るはずですよ」
「知ったことか」
美寿寿は、ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「大体、お前のところにくる依頼なんて、体を張る必要のないものばかりではないか。私が来てからというもの、精精が猫の捜索だったり浮気現場の撮影だったりだろう。それに、考えてみれば、あれらの依頼はほとんど私一人でこなしたようなものだ」
「ああ、それはですね、」
再起が言い掛けた時、事務机に向かっていた女性が、それを遮って声を上げた。
「先生、先生のご実家から、お手紙が届いております」
「うええぇえっ?」
世にも奇妙なおたけびを上げつつ、覆水再起は壁にびたっと背中を貼り付けた。
「何だ、どうした覆水再起? 背中でも痒いのか」
「先生……」
美寿寿は面白いものを見るような表情で、手紙を手に持った女性は困ったような表情で、それぞれに雇い主を見つめていた。再起は五分ほどそうして一歩も動かなかったが、やがて氷が溶けるようにゆっくりと瞬きをし、非常口のマークのように上げていた両手を下げた。
「実家から手紙、って言ったね?」
「はい。いつものように、今年はお盆のいつ頃帰って来れそうか、とのお手紙です」
「…………」
再起はまたもや口をつぐみ、更には硬くまぶたを閉じた。現実と言う現実の一切を、自分の中から閉め出そうとしているかのようだ。助手の女性はため息をつき、手紙を机に置く。
「先生、毎年のことではありますが、今回も何か理由をつけて断ろうとお考えですか」
「なに。覆水再起よ、お前は実家に帰らないのか?」
「…………」
「先生、先生はもう何年もご実家にお帰りになっておられません。もうそろそろ覚悟をお決めになってはいかがでしょうか」
「…………」
何年も帰っていない、というフレーズに反応した美寿寿は、半月型に細めた猫のような目で、動かない再起を見つめた。
「覆水再起、お前はどうして実家に帰りたくないのだ。そこまでかたくなに拒むということは、何らかの理由があるのだろう」
「ありますよ。でも、それを貴女にお教えしてさしあげる義務はありません」
「…………」
「…………」
やっと口を開いたと思えばそんなくだらないことを口にしたために、助手の女性と美寿寿は急に黙ってしまった。再起はそういう場の空気を察知したように眼を開き、ぎこちなく笑った。と思ったら、美寿寿の掌底が彼の顔面にめり込み、その笑顔は掻き消えてしまった。
鼻にティッシュを詰め、額に氷を入れた袋を乗せた再起は、ソファに横たわっていた。彼は目を閉じていて、すやすやと眠っているようだ。そのソファと向かい合う形で置いてあるいまひとつのソファに並んで腰掛けているのは、美寿寿と、助手の女性だった。
「まったく。どうしてこの名探偵は、何でもかんでも『教えてさしあげる義務はありません』なんだろうな。私は一応、ここの助手として働いている身分だと言うのに」
「先生は優しいお方ですから。先永(さきなが)さんが余計なことを知って、何か事件に巻き込まれるのを恐れてらっしゃるんですよ」
「そんなに大きい事件を扱ったことなんてあったか? ……まあそれは良い。私も少しやりすぎた」
そう言う美寿寿は確かに少しは反省したらしく、肩を落として、眠る再起を見つめていた。
「確かに、こいつは優しいのかもしれないけどな……。私が何をしようとも、一度だって反撃してきたことはない」
「そうでしょう。先生は、私の見込んだお方ですから」
「…………」
助手の言葉を聞いて、美寿寿は何かを考え込むような素振りを見せた。そして、不意に口を開いた。
「それなんだが」
「はい?」
「いや、あなたのような優秀な人間が、どうしてこんな探偵の下で働いているのか、ずっと気になっていたんだ」
「ああ、それですか。……話すと長くなりますが、よろしいですか?」
助手の女性は、眼鏡の位置を、片手で直しながら言う。美寿寿はただ一言、「それは面白いか?」とだけ口にした。
その光景の一瞬後、夏の陽光の下に、鈍い打撃音と悲痛な叫び声がこだました。言うまでも無く、声の主は男、その原因は小柄な女性だった。男は端正な顔を苦痛に歪め、蹴られた腰を押さえつつ振り返った。
「美寿寿(みすず)さん……。痛いのですが……」
美寿寿と呼ばれた女性は足を下ろし、つまらなそうに口を尖らせた。
「当たり前だ。痛いように蹴ったのだからな」
「どうしてそんなひどいことを毎日毎日なさるんです? 私が何かしましたか」
涙目になりながら、男は問う。美寿寿は腕を組んで男を見上げながら、眉をしかめて答えた。
「何度言えば分かるんだ。私は覆水再起(ふくみず さいき)を一生憎むと決めたのだ。他ならぬ、お前をな」
「あの……前は『憎む』ではなく、『恨む』だったように思いますが」
「そうだったか? まあ、どちらでも変わりあるまい。ぐだぐだとうるさいのだ、お前は」
尊大な口調で剣呑に言いながら、美寿寿は再起の腹にパンチを食らわせる。流れるような自然な動作だったために受け損なった再起は、大げさに叫び声を上げながら腹を押さえた。
「まあ、私を憎むなら憎むで全然構いませんけれど……。痛いのは勘弁していただけませんか。仕事に支障が出たら困りますし、そうなれば貴女だって困るはずですよ」
「知ったことか」
美寿寿は、ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「大体、お前のところにくる依頼なんて、体を張る必要のないものばかりではないか。私が来てからというもの、精精が猫の捜索だったり浮気現場の撮影だったりだろう。それに、考えてみれば、あれらの依頼はほとんど私一人でこなしたようなものだ」
「ああ、それはですね、」
再起が言い掛けた時、事務机に向かっていた女性が、それを遮って声を上げた。
「先生、先生のご実家から、お手紙が届いております」
「うええぇえっ?」
世にも奇妙なおたけびを上げつつ、覆水再起は壁にびたっと背中を貼り付けた。
「何だ、どうした覆水再起? 背中でも痒いのか」
「先生……」
美寿寿は面白いものを見るような表情で、手紙を手に持った女性は困ったような表情で、それぞれに雇い主を見つめていた。再起は五分ほどそうして一歩も動かなかったが、やがて氷が溶けるようにゆっくりと瞬きをし、非常口のマークのように上げていた両手を下げた。
「実家から手紙、って言ったね?」
「はい。いつものように、今年はお盆のいつ頃帰って来れそうか、とのお手紙です」
「…………」
再起はまたもや口をつぐみ、更には硬くまぶたを閉じた。現実と言う現実の一切を、自分の中から閉め出そうとしているかのようだ。助手の女性はため息をつき、手紙を机に置く。
「先生、毎年のことではありますが、今回も何か理由をつけて断ろうとお考えですか」
「なに。覆水再起よ、お前は実家に帰らないのか?」
「…………」
「先生、先生はもう何年もご実家にお帰りになっておられません。もうそろそろ覚悟をお決めになってはいかがでしょうか」
「…………」
何年も帰っていない、というフレーズに反応した美寿寿は、半月型に細めた猫のような目で、動かない再起を見つめた。
「覆水再起、お前はどうして実家に帰りたくないのだ。そこまでかたくなに拒むということは、何らかの理由があるのだろう」
「ありますよ。でも、それを貴女にお教えしてさしあげる義務はありません」
「…………」
「…………」
やっと口を開いたと思えばそんなくだらないことを口にしたために、助手の女性と美寿寿は急に黙ってしまった。再起はそういう場の空気を察知したように眼を開き、ぎこちなく笑った。と思ったら、美寿寿の掌底が彼の顔面にめり込み、その笑顔は掻き消えてしまった。
鼻にティッシュを詰め、額に氷を入れた袋を乗せた再起は、ソファに横たわっていた。彼は目を閉じていて、すやすやと眠っているようだ。そのソファと向かい合う形で置いてあるいまひとつのソファに並んで腰掛けているのは、美寿寿と、助手の女性だった。
「まったく。どうしてこの名探偵は、何でもかんでも『教えてさしあげる義務はありません』なんだろうな。私は一応、ここの助手として働いている身分だと言うのに」
「先生は優しいお方ですから。先永(さきなが)さんが余計なことを知って、何か事件に巻き込まれるのを恐れてらっしゃるんですよ」
「そんなに大きい事件を扱ったことなんてあったか? ……まあそれは良い。私も少しやりすぎた」
そう言う美寿寿は確かに少しは反省したらしく、肩を落として、眠る再起を見つめていた。
「確かに、こいつは優しいのかもしれないけどな……。私が何をしようとも、一度だって反撃してきたことはない」
「そうでしょう。先生は、私の見込んだお方ですから」
「…………」
助手の言葉を聞いて、美寿寿は何かを考え込むような素振りを見せた。そして、不意に口を開いた。
「それなんだが」
「はい?」
「いや、あなたのような優秀な人間が、どうしてこんな探偵の下で働いているのか、ずっと気になっていたんだ」
「ああ、それですか。……話すと長くなりますが、よろしいですか?」
助手の女性は、眼鏡の位置を、片手で直しながら言う。美寿寿はただ一言、「それは面白いか?」とだけ口にした。