生者に贈るレクイエム
【第零話 プラットホームの悪夢】
それは春先――3月初頭のことだった。
とあるローカル線のプラットフォーム。その雑踏に混じって一人の男子中学生がぼんやりとたたずんでいた
黒の学生服にくたびれたスポーツバッグ。そして、少し眠たそうな瞳。
見渡すと周囲は家路を急ぐ人々であふれかえっていた。
帰宅ラッシュの真っただ中、いつも通りの光景。
だが――。
脳裏に独特の耳鳴りがよぎった瞬間、彼の顔大きく歪んだ。
例えるならば、何か恐ろしいものを目の当たりにして身体がすくんでしまったかのような。
周囲の温度が一気に下がったように感じる。
――うわぁ……またかよ……。
この少年、学業・スポーツ・容姿ともに可も不可もないごく普通の男子中学生なのだが、たった一つだけ他人と違う才能を持っていた。
霊視能力、である。
ところで、一口に霊感があるといっても何となく見えて聞こえるというだけで、TVに出てくる霊媒師のように悪霊をこらしめバシバシ除霊・浄霊できるというわけではない。
見える相手ですら――運悪く波長がばっちり合致でもない限り――まるでピンぼけ写真のような、はっきりとしない姿をとらえることしかできない。とんだ低スペックぶりである。
まぁ、漠然とした雰囲気だけでも無害な存在と絶対に近寄ってはならない存在を見分けることくらいは可能ではあるが。
皮膚にビシバシと突きささるくらい強烈な、何かの気配。
――この感覚は……かなりヤバい。
全身の震えが止まらなかった。
つばを嚥下する音がやけに耳につく。
霊の姿をこの目に捉えてすらいないのに、溢れだす負の威圧感<プレッシャー>で今にも押しつぶされそうだ。
これまでにないような強烈な吐き気に襲われ、嫌な汗が噴き出てきた。
――とてつもなく質の悪い悪霊がいる……っ。
それもすぐ近くに。
霊にも色々いて、ただ単にその場にたたずんでいるものは危害を加えてきたりしないし特に問題ない。それに、憑かれたりとり殺されたりする人間は、自業自得であることがほとんどだ。――例えば心霊スポットを荒らしてきた奴とか、他人を苦しめて自殺に追い込んだ奴とか。
そんなろくでもない奴のために、自らを危険に晒してまで尽力してやる趣味はない。
だが、非業の死を遂げた人間の悲しみや悔しさは、時として生きている者に対する見境のない憎しみの念に変わってしまう場合がある。
要するに悪霊になってしまうわけだ。
こうなると、除霊・浄霊ができない人間には手のつけようがない。『周囲の人間にも自分と同じ苦しみを味あわせてやる!』とばかりに、全く関係のない人間を手当たり次第に引きずり込もうとするようになる。
運が悪い事に、今回遭遇してしまったのはこのタイプの悪霊だった。
ノー感の人間であれば思いつめて心が弱ったりしていない限り、その害を受けることはない。だが、自分のように中途半端に見える人間にとっては何より恐ろしい自然災害である。
粘着性があり、それでいて鋭く突き刺さるような殺意。
しかし、幸いなことにその念が向かっている先は自分ではなかった。
腕時計を見る。
いつもの電車が来るまであと一〇分。
――あと一〇分か。
このままやりすごそうとも思ったが、自分の周囲で何が起ころうとしているのか全く分からない状態で待つにしては、それは長すぎる時間だった。
内心ビビりながらも、元凶を探してそろそろと視線を巡らせる。
強烈すぎる邪気だ。
簡単に探し当てることができた。
それは先頭に並んでいる中年のサラリーマンの足元にまとわりついていた。
運悪くターゲットになってしまったこの男性には霊感のないのか、全く気が付いていない様子。
何か悩みごとでもあるのだろうか。疲れ切った顔をしている。
霊が絡んでいなくても思わず心配になってしまうくらい陰鬱な表情――悪霊に付け込まれやすい状態なのは見るに明らかである。
その足元を見た瞬間、少年はうっかり泣き出しそうになった。
――うわぁぁぁっ!
どうやら、とんでもない大物にぶち当たってしまったらしい。
黒々とした人型の影。
恐らくこれまで何人もの人間を殺してきたのだろう。はっきりと見ることはできないが、その罪の重さにふさわしく醜悪な姿形をしているのが分かった。
今さら供養をしてやってもとうてい成仏できるとは思えないような業の深さ。このまま罪を重ね続ければ、間違いなく地獄に落ちるだろう。
悪霊というよりも、もとが人間であったのかも怪しいレベル。すでに化け物に近いような状態だった。
腐肉のような饐えた臭い。
物理的には存在しない悪臭が漂っている。
――ヤバいヤバいヤバい! あの人マジで殺される……っ!
すでに人らしき原形をとどめていない悪霊ではあるが、それは過去にここで鉄道自殺した人間であるという事実が過去の映像とともに頭の中に流れ込んできた。
現実に見えている人の群れに重なるようにして、その奥にこの世ならざる姿が見える。
黒く歪んだ血にまみれた手が、サラリーマンの足首をがっちりと握っていた。
そして、何かに引きずられるようなぎこちない動きで、サラリーマンの身体が少しずつ前へ前へと進んでいく。
黄色の線は既に超えた。あと少しで彼はホームの下へと転がり落ちるだろう。
よほど強く魅入られてしまったようだ。
サラリーマンの方をじっと霊視していると、虚ろな瞳でホームの向こうを見据えている光景が脳裏をよぎった。
濁ったような生気のない瞳だ。
ホーム下に転がり落ちる寸前。
正気であれば、周囲の人間が慌てて止める入る状況である。しかし、その異様な光景に気付く者はなかった。
電光掲示板に「特急」「当駅通過」の二文字を見て、少年は絶望的な気持ちになった。
止めに入りたい。だが、そんなことをすれば祓う力のない自分は間違いなく狙い撃ちにされてしまうだろう。
――どうしよう。
少年は助けを求めるように周囲を見渡した。
そうこうしているうちに、サラリーマンの足は死の淵に向かってどんどん進んでいく。
――もう駄目だ……っ。
祈るように目をつぶった。
ちょうどその時――。
冷たい電子音が響いた。
サラリーマンの胸ポケットだ。
彼はびくっと身体をひきつらた。どうやら正気に戻ったらしい。慌てた様子で胸元をまさぐった。
仕事という現実に引き戻された彼は、ぎょっとして後ろに後ずさった。
疲れた表情ながらもその瞳にしっかりとした輝きを取り戻して電話に応対しているのが見える。
そして、その目の前を特急列車が勢いよく通過していった。
少年は詰めていた息を吐いた。
――良かったぁ……。
だた。
ホッと息をついたのも束の間――あの気持ち悪い存在と、目が、合った。
その暗く落ちくぼんだ眼窩に、眼球が収まっているのかも定かではない。しかし、間違いなくこちらを凝視しているのが分かったのだ。
それは既に人間とは言い難い姿形をした、中年の男だった。
そいつがにたりと笑う気配を感じた。
新たなターゲットとして認識されたからだろうか。
ついさっきまでぼやけていたピントが急激に合わさっていくように、その姿がはっきりと感じられた。
作品名:生者に贈るレクイエム 作家名:響なみ