Slow Luv Op.1
「それだけじゃないんだ。小夜子の仕事が順調で、日本を離れられなくなったって言うのもある。時間が合わなくて、ここ二〜三年はほとんど会ってないし。そうなったら別に夫婦でいる意味はないしね」
淡々と話す英介だったが、悦嗣は「らしくなさ」を感じていた。
二人がこの話を、ちゃんと話し合っているかどうか。
「トラブル発生って、小夜子のことだったのか」
もしかしたら、昨日今日、そういうことになったのかも知れない。
悦嗣のつぶやきに、英介は「違う違う」と笑って手を振った。
「前から出ていたんだ、この話は。具体的になったのは最近だけど。もう少し気持ちに整理がついて形になったら、おまえに話そうと思ってたんだ。それに今回は仕事で帰ってきてるし。離婚の話より、そのトラブルの件で、エツに頼みがあるんだけどな」
英介は話題を変えた。話したくない時、彼は多少不自然であっても、話を刷りかえることがある。
今はまだ話したくない…と、笑んだ目が語る。仕方なく悦嗣も、逸らされた話に耳を移した。
「今回アンサンブルのコンサートで回っているんだけど、ピアニストが腹膜炎で倒れちゃって、代役探してるんだ」
「俺の知り合いに、腕の良いピアニストなんていないぜ」
悦嗣の頭の中には、まだ離婚の二文字が残っている。だから次の話題に素っ気ない。
英介は構わず続けた。
「エツに頼みたいんだけど」
グラスに近づけた口を、悦嗣は離した。
「何言ってやがる。何年弾いてないと思ってるんだ」
さっきの話題が吹き飛んで、意識が彼に戻ると、あきれたように言った。
「そうかな、時々バイトで弾いてるって聞いたけど?」
「あのなぁ、アンサンブル・ピアノと、結婚式やカフェのバイトと同じにするなよ」
「曲目はブラームスのピアノ五重奏。学生の時に弾いたことあるだろ?」
「おい」
英介はカバンの中から、楽譜を取り出していた。用意周到である。
目の前に差し出されたそれを、悦嗣は軽く払った。
「だから、卒業してから何百年経ってると思ってんだ」
「俺はエツの腕を惜しいと思ってるよ。機会があれば、もう一度一緒に弾きたいと思ってた」
英介の顔から笑みは消えていた。思いつきの冗談ではなさそうだ。
悦嗣はグラスの酒をあおった。
「エースケ、そのチケット、いくらなんだ?」
「五千円」
「五千円払って来る客に、カフェバーのバイトのピアノを聴かせんのか? 客を馬鹿にすんのはよせよ」
昔からそうだが、英介は悦嗣をピアニストとして過大評価する嫌いがある。三流とは言え、芸大でピアノを専攻した身にとって、海外で活躍する人間から評価されるのは、悪い気はしない。
しかし英介が知っている悦嗣の腕前は、学生時代=全盛期の頃のもので、遠い過去のものなのだ。
卒業してから悦嗣が彼の前で弾いたのは、結婚披露宴での即席デュオの一曲。その評価が適正とは言い難い。
悦嗣の言葉に一瞬詰まった英介だが、尚も話を続けようと口を開きかけた。
「久しぶりに会ったんだから、そんな実にならない話はやめて、飲もうぜ」
「エツ」
「いい加減にしろよ、エースケ。離婚話、蒸し返すぞ」
それを冗談めかして、しかし脅し半分で抑えつけ、無理やり話を終わらせた。
仕方なく英介は、それ以上その話を続けなかった。
そうしてやっと、『久しぶりの再会に酔いしれる夜』に戻ったのである。
作品名:Slow Luv Op.1 作家名:紙森けい