Slow Luv Op.1
昨日までとは違う、楽屋で感じていたものとも違う。幸せな緊張感――悦嗣のその感覚は、形容するとそういったところかも知れない。
長く忘れていた『楽』の世界。緊張感さえも魅力的に変容する。
「こんな緊張感なら、永遠に続いてもかまわない」
と思えるほど、悦嗣は『楽』に酔っていた。
「エツ?」
立ち上がった悦嗣に、英介はミハイルとの会話を止めて声をかけた。
「ちょっと風にあたってくる。調子に乗って飲み過ぎた」
と答えて、悦嗣は非常口の表示が出ているドアに向った。
日本での三公演を無事終えての打ち上げが、ホテルのバーを借り切って行われていた。英介以外の三人は、明日の夜便でウィーンに帰ることになっている。
今回の演奏会が盛況であったことと、滞在最後の夜ということもあって、みんなの酒量も自ずと進んでいた。特に悦嗣には、次々に注ぎ手がやってくる。さすがに悦嗣も『公式の場』での限界に近づいていて、酔い覚ましがそろそろ必要だった。
非常口を開けると地上に下る非常階段が右手に、バー専用の空中庭園に上る短い階段が左手に伸びている。
悦嗣は迷わず左に足をかけた。
演奏がいつ終わり、どうやって楽屋に戻ったか覚えていない。記憶は楽屋のドアを、夏希が蹴破るがごとく開けたところから始まった。
「エツ兄! なんで黙ってたのよ! ひどいじゃない!」
彼女の声はあまりに大きく、音の世界にいた悦嗣を容赦なく現実に引き戻し、隣室の英介をも引き寄せた。
「エースケさんも、教えてくれたらよかったのに!」
「それじゃあサプライズにならないじゃないか」
英介が例の最強の笑顔で、夏希をかわしてくれたのはありがたかった。
その後、次々と知人が訪れ、慌ただしく打ち上げ会場へ移動し、余韻や心地よい疲労感に浸ることは許されなかった。
やっと一人になれる。人に囲まれるのは嫌いではないが、今はあの時の音を思い出したい気分なのだ。
五段ほどの階段を上ると、こじんまりと整えられた庭に出た。夜景の邪魔にならないように、常夜灯は地面に直置きにされていた。
半月が浮んでいる。そのまわりに、薄い雲と高層ビルを従えて。
「風流だなぁ…」
悦嗣は上着のポケットから煙草を取り出すと、火を点けた。
ライターの小さな炎に照らされたのは、自分の手。二時間前の感触が、まだ残っている。弾ききったんだな…と、あらためて見直す。
ゆっくりと煙を吸い込み、紫煙の行方を追って上げた目に人影が映った。
「うわぁ!?」
思わず声が上がる。
庭を囲む手すりに身をもたせて地上を見ていた人影は、その声に気づいて振り返った。夜に慣れた目が、中原さく也だと確認した。
「お…おどかすなよ」
悦嗣は口から落ちた煙草を拾い上げながら言った。
「驚いたのはこっちだ」
さく也はまた外に目を戻す。
悦嗣は隣に立った。
「何してるんだ、こんなところで?」
大仰に驚いたことの、バツの悪さをごまかすように話し掛けると、
「酔いさまし」
と答えた。
眼前に都会の夜景が広がる。週末とあってビルの窓の灯りは少ない。それでも地上に下りるにしたがい、灯りの数は増えていく。使い古された『宝石のような』という表現が、やはりぴったりと合う。
「俺も。調子に乗って勧められるまま飲んじまった。さすがにキツイな」
「強そうだ」
「どうかな。でも若い時ほど飲めなくなった」
さく也がクスクス笑う。
「なんだよ」
「若い時ほどって、まだ若いじゃないか」
「今よりもっと若い頃だよ。それにな、日本じゃ三十過ぎたら、もうおじさん呼ばわりなんだぞ」
新しい煙草に火を点けて、すぐに消した。ここのところ本数が増えたことは自覚している。さく也はまだ笑っていた。アルコールが入っているせいか、彼は普段になくよく笑った。
「今日、いい演奏だった」
そしてよく話す。
「自分でもそう思う。出来はともかくとしてな」
「いい出来だったよ」
「そ…そりゃ、どうも」
酔っているとはいえ、中原さく也に誉められるの悪い気はしない。
演奏の間中、悦嗣の耳は無意識に第一ヴァイオリンの音を追っていた。一度も臆することなく弾きつづけていられたのは、その音が必ず聴こえていたからだ。
「ファーストのおかげだ。俺はその音に何度も助けられたよ」
それは素直な気持ちから出た言葉だった。
「その音があると思うから、開き直って弾けたのさ」
さく也の反応はなかった。少し奇妙な間が空く。
「おまえ、照れてるな?」
悦嗣はからかい気味に言った。言った自身が照れているのだが。
「酔っ払いに言われても、真実味に欠ける」
答えたさく也の額を、軽く悦嗣の手が弾いた。笑い声が夜に響く。
二人は並んで手すりにもたれた。テールランプが流れるアスファルトの川を、見るとはなしに見ていた。
「この話、エースケに無理やり推しつけられた時は腹立ったけど、今は受けてよかったと思ってる。世界レベルの音と一緒に演れたんだからな。この先二度とない機会を与えてもらって、あいつに感謝してる」
「これからだって演れるさ。あんたのピアノは弾きたがってる」
「俺のピアノは、いいとこ学生レベルだ」
「レベルなんて関係ない。聴く奴が決めるんだ、その演奏の価値を。あの拍手、聞いたろう?」
さく也は悦嗣の方に向き直った。
「あの拍手はクインテットのものだ。アンバランスな演奏にスタンディングオベーションするほど、東京の客は程度低いのか?」
悦嗣の耳に、割れんばかりの拍手の音が蘇った。フラッシュバックされる自覚のない記憶。ただ拍手の音は鮮明だ。
「少なくとも…俺はまた一緒に弾きたいと思った」
その言葉は呟きに近かった。
悦嗣の手が、彼の頭をクシャクシャと撫でた。
「さんきゅ、でも酔っ払いに言われても、真実味に欠ける」
二人はまた笑った。
ひとしきりに笑った後、不意にさく也の両腕が悦嗣の首に回される。
まだ笑みを作ったままの悦嗣の唇に、彼のそれが重なった。閉じられた目元に、月明かりが睫毛で影を作る。
冷たい唇、熱い舌先。
突然のことに腕を引き剥がすことも出来ず、悦嗣はただ呆然と立っているだけだった。
やがて名残惜しげに唇が離れて、ほろ酔いの潤んだ瞳が、呆けた悦嗣を見つめた。
「俺、一人部屋なんだけど」
と言う言葉に、やっと悦嗣は我に戻った。
酔いはすっかり醒めていた。
「い…いや、俺は…、ごめん、俺、その気は…その、無いんだ」
しどろもどろに答える。まださく也の唇の感触が残っている。
彼は一度瞬きして、悦嗣の首に回した腕を外した。
「そうなんだ? てっきり同じだと思ってた。エースケのこと、いつも熱っぽい目で見てるし」
「え、ええ!?」
さく也は悦嗣から体を離す。
「でも違ったのなら、今のキスは忘れてくれ」
彼は腕時計を見た。
「そろそろ戻らなきゃな」
そう言うと、再び呆けて立ち尽くす悦嗣に、おかまいなしに歩き出した。
悦嗣は無意識に唇を指でなぞって、その後姿を見ていた。
さく也の姿が短い階段を下り、視界から消える頃になって、ようやく彼の足も前に出た。
作品名:Slow Luv Op.1 作家名:紙森けい