楠太平記 序
自身の後ろに連なる兵士たちの遺骸、漂う死臭。峠の向こうからは黒煙を上げ、敵の軍が迫って来ている。
その追撃を阻める味方の兵士は何処にもない。一万もいた軍は、自分と弓を持ったたった一人の従者だけになった。
「姫・・・・・・」
「――おのれ・・・・・・我らを裏切った挙句、追討軍の陣頭指揮を執るとは!! 血迷うたとしか思えぬ・・・・・・ッ!!」
力を集中させ、拳を思い切り地面に叩きつける。固い岩盤は次々に罅割れ、峠の頂に向かって走った。
迫りつつあった黒煙が、頂を境にがらがらと崩れ去っていく。
だが黒煙は先頭の犠牲を足場にし、少しずつ越えようとしていた。
「そうもつまいが・・・・・・。釈衛(せきえい)、そなたは降伏せよ。奴のことじゃ、そなたを無下に殺すようなことはしまい」
従者に背を向け、先を歩きだす。
「お待ちを、姫!! 姫は・・・・・・どうなさるおつもりですか」
従者の問いは尤もなものだった。
味方の兵士もない、多勢に無勢。
これ以上の戦いは何にもならないと分かっている。
「私は決して屈さぬ。一端下界に潜り、時を待つ。それまでさらばじゃ、釈衛。達者でな」
「姫――っ!!」
従者の声を振り切って、下界へ降りる。
負けは認めない。認められない。
血と死臭を漂わせた姿のまま、人間の世界へと飛び込んだ。
「――ふ。しかし、下界も下界じゃな。
血の臭いは、ここでも変わらぬか」
日之本。時は鎌倉幕府が滅び、二人の天皇を奉じ、武士たちが争った南北朝。
これはとある武士の姫と、異界の姫の物語。