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ついに発電所からも人がいなくなったそうだ。そうでなかったとしても、じきに電気は止まるだろう。最後にやりたいことがある。崩れた棚や各種実験機器を押しのけて、薄暗くなった研究室を進む。ああもう直せないんだろうな。あれもこれも。試作段階だった装置の上で、ガラスの破片がちらちら光っている。細かなガラスを手で払いのけた。装置を起動する。彼女の脳がつながった装置を介し、スピーカーから彼女の声が聞こえる。
「ねえねえどうなった?」
「発電所から人がいなくなったってさ。このへんの人でも逃げられた人けっこういるみたいだよ。」
「そっかー私の人生ボーナスステージも限界だね」
「ボーナスって感じじゃないけどね」
「こうやっておしゃべりできるだけでうれしいよ。一度死んじゃう思いすると、言わなきゃいけなかったことが突然思い浮かぶの。普通そうなったころにはもう遅いんだろうけどさ、言えるんだもん。」
「喜んでもらえてよかった。」
すすけた丸椅子を手近なところから持ってきて、彼女の脳の前に座る。じっと見つめる。彼女がそこにある。
「今みつめてる。」
「じゃあ私も見つめるよ。」
「ふふ。」
「ふふ。」
日が傾いてきた。光にうっすらオレンジ色が混じる。外からざらざらした音がたくさん聞こえていて、原因は行き場を求めている人たちだろうけど、歩き回ってどうするんだろうか。もうどこにいたって一緒なんだ。
「ねえまだ見つめてる?」
「うん。」
「まだいてくれる?」
「ずっといる。ずっとここにいるから。」
「ありがとう。」
「それしかできないんだ。…それしかできないんだ。」
ぴしり、ぴしりと壁のボードが割れている。天井に入った大きなひびの間に針金が見えた。僕は今彼女とふたりきりだ。
彼女の声でスピーカーが振動した。
「ひとつだけお願いがあるの。」
「なに?」
「私の代わりに生きててくれない?」
そっか、彼女は生きたかったんだった。
「わかった。」
「私の脳どうするの?」
「腐らないようにして持って歩くよ。ずっと一緒っていったでしょ?」
「うん。うれしい。ほんとだよ。ね。でも、そうなったらもうしゃべれないんだよね。ね。」
「そうなんだ。しゃべれなくなっちゃうんだ。ね。絶対にずっと一緒にいるから。安心して。大丈夫だよ。」
「そうだよね。大丈夫だよね。私は一緒だからこわくない。でもね、心配なのはあなたが寂しくなっちゃうこと。」
「えっ」
僕は寂しくなるのだろうか。彼女がいなくなって、声を持って戻ってきて。いなくなったと知った日はどんな気持ちだっただろうか。思いだそうとしても、目覚めて安心してしまった悪夢そのもので、肝心な感情がぼんやりと薄れてしまっている。でもきっと、彼女を実感することが少なくなるんだから、寂しくなるよなあ。
そう言ってしまうのは簡単だろうが、彼女を不安にさせるわけにいかない。
「平気だよ。ちゃんと生きてくよ。それなりに体はしっかりしてるつもりだし。僕が守ってあげる」
「ありがとう。」
彼女に触れた。手のひらと心が温かくなっていくのが分かる。
「こっちこそありがとう。」
時間だ。
「じゃあ久々に出かけよっか」
「ついにこの部屋出ちゃうんだね、緊張する。」
「うん。緊張する。」
温まった手のひらにじんわり汗がにじんだ。外の光はオレンジから赤に移り変わっていく。
「ねえ、最後にいっこだけ。こうなるってわかってからずっと思ってたこと。言っていいかな」
彼女の声。ずっと聞いていたくてここまで連れてきた彼女の声。
「うん。」
「今までそのつもりなしに寄りかかってきた社会が砕け散って消えたなら、残るのは人間の心だけだってわかるよ。無事に迎えられるかどうかわからなかった明日を、形にして信用させてきたのが社会だから。」
「うん」
「明日が信用できなくなったら、自分を守ってくれるのは自分だけだよ。どんなことをしても罰を受けない、制裁されない。試されるんだ。それぞれが抱えていた倫理観を、なんのために積み上げてきたのか。でも、あなたはきっと大丈夫だと思う。どうしようもない無の中に放り出されても、それまでの自分を捨ててしまったりはしないだろうから。」
「うん。」
「脆い人は壊れてしまうだろう。弱い人は悪を妨げていたものを捨ててしまうだろう。消えてしまう社会の代わりに、あなたが制裁しなくちゃいけない。あなたは優しいままだから、そんな自分が壊れてしまっていると思ってしまう。罰を受けるべきは自分だと思ってしまう。でも違うの。優しいものが悪を判断するから秩序になるの。あなたが苦しんでいることが、秩序の存在証明になる。あなたが判断して、秩序をつくれる、苦しむことのできる人を決めて。そんな人が十分に集まれば、社会はまた生まれるから。」
「うん。」
「これが私の言いたかったことだよ。」
金属がこすれあう音がした。真っ赤な光が部屋を満たしたのに、小さなランプは消えた。
「今までそのつもりなしに寄りかかってきた社会が砕け散って消えたなら、残るのは人間の心だけ」
耳に残る彼女の声を消さないように、小さな声でゆっくりと復唱する。
「あなたはきっと、大丈夫だと思う」
指先の感覚が薄れていて物足りない。彼女だったものをそっと抱きよせるようにして、胸に当ててみた。熱を持っているのが、自分自身だけだとわかった。