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「ゑみ子」

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 トタンを壁に、赤茶けた毛布を土間に敷いた三畳余りの空間。
 ごらんのあばら家にくらす私は、ゑみ子と同棲している。
 ゑみ子は女で、私は男なのだからやはり同棲という事になるだろう。
 たとえゑみ子が、日の下に出るにはおぞましすぎる容姿をしているとしても、彼女は私の、内縁の妻だった。
 はたして、ゑみ子は醜い。人の形はしているが、果たして本当に人だろうか。
 鳥はだというにもおごかましく、肌が波打つ襞と言えば爬虫類か樹木のよう。そのくせ表面は柔らかいものだから、よく血を流しては、こぶの一つ一つが魚のうろこのようにぬらりと光るのだ。
 ……そんなゑみ子に養われる自分に情けなさを覚えないのかと罵られれば、このうらぶれた私に反論の余地など全くなかった。
 彼女はこの近くにある見世物小屋に勤めている。人魚のミイラや猫又のはく製、その他もろもろいわくつきの品物を見せびらかしては客から小銭をとっている胡散臭い小屋の、最大の見世物がゑみ子なのである。
 世にもみにくい、蜥蜴と人魚の間の子であるという。
胡散臭いオーナーがよこす僅かな金を、ゑみ子は何も言わず私に渡した。その金で安酒をあおり、私は何度もゑみ子を犯す。それが我々の日常的な生活であった。
 何故だかは知れないが、ゑみ子は私を愛していた。
 好きものであった私は、金のあったころ、何度かゑみ子に酌をさせたことがあった。蝋燭の灯の下で、おぞましい怪物に酒を注がせて自らの征服欲を満たしていたのだ。
しかし今や私も、ゑみ子がおらねば生きていけぬ。かつては投資で暮らしを立てていたが、数年前に大失敗をしてしまった。仕事を失い、信用を失い、行き場さえ失った私が、どのような縁か転がり込んだのがゑみ子のあばら家たった。ゑみ子を飼い、またゑみ子に飼われて暮らしているのである。
「ゑみ子。今日は客、多かったのか」
「ええ、すこうしばかりですけども」
 声は確かに、若い女のそれである。しかしむわっと生臭いにおいがするのは、ゑみ子の襞にたまった血が、ここ最近の湿気で腐り始めているからかもしれぬ。近いうちに、いちど彼女を河へ放り込まねばならなかった。
「そうか、そうか。じゃあ、きなさい。もっと近く」
 しかし私はこの時上機嫌であった。臭いと怒鳴りつけるでもなく、壁の隙間から射しこむ月明かりが彼女の肌を照らすのをみていた。
 もう何年、こんな暮らしを続けているのであろう。
 当初抱いていたはずの嫌悪すら、うすれてゆこうとしている……。
 ゑみ子はとてもよかった。見た目など、気にかける事ができなくなるほどに。ゑみ子を抱くときは、このあばら家も蓮葉の浄土となる。
 菩提を得たような心地をゑみ子によって与えられるという事が恐ろしく不安で不快で、私はこれまで何度ゑみ子を殴り倒し、踏みつけて、何度このあばら家を血まみれにしたろうか。
 月明かりの力かもしれぬ、その狂暴な私は今夜息をひそめ、ただゑみ子を見下ろしていた。
「旦那様、月が明るく御座います」
「良い、今夜は、良い」
 私が鼻面を埋めるゑみ子の髪は、黒々として腰があり、海のにおいがした。
 海藻に顔を埋める気分である。
 いじましいこの怪物のなんと哀れなことか。こんな男を養わず生きていく方法もあるだろうに、いっかな、ゑみ子は私をほっぽり出そうとはしなかった。
 そう考えると、無性にくやしくもある。
 ああ、私はこの怪物に憐れまれているのだ。
「嗚呼、ゑみ子、ゑみ子、ゑみ子」
 まさしく衝動である。
私はゑみ子の首を両の手でぐっと抑えた。
生温かく、指先にぬるりとした液体がまとわりつく。
 襞が張り詰め、指先は骨の感触をとらえる。
 それは確かに、人間の首であった。
「……っ、っ、っ!!」
もがき苦しむゑみ子の声をしばらくじっときいていると、私の目じりから涙が一滴溢れ、つるりと彼女に滑り落ちた。
べったりとゑみ子の体液にまみれた手を彼女の首から放して、頬を撫でてやる。
「お前、苦しいだろう。嗚呼、ゑみ子」
 神や仏がいるのなら、なぜゑみ子を救わないだろう。
 なぜこんな私に天誅がくだらないだろう。
 さあやって見せろ、今すぐに。
 そう思いながら私はゑみ子にのしかかった。
「私が怪物で、お前が玉のような肌の女なら、どんなに良かったか」
「だんなさま、」
「今すぐそうしてくれ今すぐにだ。なあゑみ子、つらいだろう」
「……」
 ゑみ子は何も言わずに私を抱きしめて、ざんばらの頭を優しく撫でてくれた。その晩私たちはちぎることを忘れて、そのまま眠りについた。

 穏やかな眠りを得たというのに、私の寝ざめは最悪だった。
 体が、有体に言うと鉛のように重いのである。全身にギプスをはめられたようだ。
 指先の間接ひとつ、随意筋の通っているように思えない。
 やっとの思いで体を起こすと、視線の先にうつくしい女が座り込んでいた。
粗末な布だけを身にまとった、黒い髪に、つややかで白い肌の、傷を知らぬ珠のような女だった。
 女は茫然とした様子で自分の手を見つめ、その瞳に焦燥の色を乗せている。
「旦那様」
 ゑみ子の声は、確かに女の口から聞こえた。
「嗚呼、こんな」
 私は自分の手をみた。
 おぞましい肌をしていた。
 鳥はだというにもおごかましく、肌が波打つ襞と言えば爬虫類か樹木のよう。そのくせ表面は柔らかい。

月は確かに、私に天誅を与えたのである。


 これを地獄と呼ばずなんと呼ぶだろう。
 昼間は日差しが肌を射し、このあばら家に射しこむ光にすら痛みを覚えた。
 かといって夜になっても、動く気力など沸く訳もない。かつてのゑみ子のように稼ぎに行こうという気にもならぬ。どうしようもない上に、恐ろしく醜い姿をした私を、美しい女になったゑみ子はそれでも養った。
与えられる食事を喰うだけの私の、爛れた皮膚を綿の布で優しく拭い、海藻のような髪を穏やかに梳く。……しかし幾ら体を清められようと、どうしてこんな姿で人前に出られたであろう。
以前にも増してあばら家にひきこもるようになった私を、ゑみ子はその柔らかい太腿に寝かせて、幸せそうに子守唄など歌ったりした。私の寝る間に出かけては、僅かな銭を稼いで慰めるように酒を買って帰ってくる。
 何一つ代わり映えのしない、私たちの日常がそこにあった。
 嗚呼、ゑみ子。馬鹿な女だ。
 その美しい容姿ならば、男の一人や二人、簡単に誑かせるだろうに。
 夜、くたびれて帰ってくるゑみ子を見るたび、身を削っていく月を見上げるたび、私は野良犬のように吠えて泣いた。
「出ていけ! 今すぐに! さぁ、すぐにだ!!」
 憐れまれていることが恐ろしいのだ。
 このおぞましい怪物は、今やゑみ子が、この女がいなければ生きてゆけない。だがこの女は、私がおらずとも生きて行けた。
 圧倒的な差異である。
 私は人の姿を持とうとゑみ子なしでは生きて行けなかったというのに、ゑみ子はどんな姿であれ、私などおらずとも生きて行けた。怪物を憐れむつもりで、私は常に怪物に憐れまれていたのではないだろうか。
私という一人の人間の自尊心は最早、再起不能なほどゑみ子に砕かれ、欠片すらのこっていない。
「このおぞましい怪物を捨て置いてくれ!!」
「旦那様、」
作品名:「ゑみ子」 作家名:青柳メイ