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第10

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其の証拠に、孫子事態、戦争追求の晩年、これまでの自身の

過去をふり返り、己の犯した兵法の研究により、勝利を得たが

この勝利をえるために、失った犠牲、戦死者の膨大さに

勝利は得たが、犠牲のほうが遥かに甚大であることに気づき

晩年は後悔し、隠遁して自らの犯した、罪ほろぼしに

質素に暮らしたと文献にある・・・・  

上記の謀攻編でも、未来におこる懸念を、示唆している。

これに孔子が慨嘆して嘆いた言葉が  

(これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らずと為せ。

これ知るなり)(知っている事は知っているとし、知らぬ事は

知らぬとせよ。それが知るということじゃ) ソクラテスの

“無知の知”と全く同じことを言っている。

そしてお釈迦(仏教のシーダルッダ)さまも      

全く同じことを言われています。      

これは間違いのない真理なのでしょうね。

「君子は人の美を成して、人の悪を成さず」   

(君子は他人の善事や成功を喜んで、それが成就することを願い

他人が失敗したり悪評を受けたりするのを

心配して、援助したり弁解したりする)

人の成功を願い、失敗はフォローする。      

素直に心から、そんな振るまいができる。      

いつの日か、そんな人間になれたら…      

と祈るのみ。    

と語って・・・・・・  

またそれを嘆いた老子が 聖を絶ち智を棄(す)つれば

民の利は百倍せん。

仁を絶ち義を棄つれば、民は孝慈に復帰せん。

巧を絶ち利を棄つれば、盗賊あること無からん。

此の三者、以って文足らずと為す。

故に属(つ)ぐ所あらしめん。

素(そ)を見(あら)わし、樸を抱け。

私を少なくし欲を寡(すく)なくせよ。(老子・19章)  

ここでも老子は基本的に同じようなことを言っています。

「聖を絶ち」というのは、老子のいうところの聖人の「聖」

ではなく、(孔子)儒家の先生方の事で。

王侯に仕えていろいろ政治に入れ知恵していたわけですが

そんなものはリストラしたほうが100倍民衆の

利益になると老子は言っているわけです。

儒家が説くところの「仁」だの「義」だのという

徳目を捨ててしまえば、民衆は孝行と慈愛に立ち返る

と老子は続けます。

要約すれば仁・義などは人として自然と当たり前に

備わっており、家族愛を 第三者が教育するのは無駄な

浪費以外何者でもないと言っている

このあたりのクダリは前の18章に対応しているので

ちょっとそちらも読んでみましょう。

大変有名なセリフです。

大道廃(すた)れて仁義あり。

智慧出(い)でて大偽(たいぎ)あり。

六親和せずして孝慈あり。

国家昏乱(こんらん)して貞臣(ていしん)あり。

(老子18章) 大道というのは、基本概念である「道」

(TAO)というより、もう少し現実界に近い道のニュアンスで

具体的には道に沿った政治ということでしょう。

そういうものが廃れてしまったから「仁」だの「義」だのと

いうことをことさら言わなければならない世の中になったのだ

と老子は言います。

小ざかしい智慧が幅を利かせるようになって大嘘が

横行するようになったと。

親子親族が仲たがいをするようになり、孝行だの慈愛だのが

もてはやされるようになった。

国が混乱しているから忠臣(奸臣輩)というものも

出てくるのであって、大きな道が守られ国が治まっていたなら

ことさらな忠臣などなくても構わないわけです。  

基本的に老子の批判の矛先が儒家に向いていることは

確かですが老子は「仁義」や「孝慈」の内容そのものを

否定しているわけではありません。

それは本来もっと自然な形でおのずと行なわれるもので

あることを強調したいわけです。  

そして19章では、さらに「仁義」なんていうことを

民衆に強要しなければ、孝慈が行なわれるようになると

結論づけているわけです。

しかし果たして本当にそうなるのか。

「仁義」ということが言われ出したのは

それを言わざるを得ないような社会状況があったからであって

「仁義」を強要するのをやめたからと言って民衆がみんな

孝慈に立ち返るというのは、ちょっと安直な考えではないか

という疑問が出てくるだろうと思います。  

それを見越して老子は「此の三者、以って文足らずと為す。

故に属(つ)ぐ所あらしめん」と続けているわけです。

「ちょっと説明が足りないと思うので少し補足する」ということです。  

ただ、その補足説明というのがまたわかりにくい。

「素(そ)を見(あら)わし、樸を抱け。

私を少なくし欲を寡(すく)なくせよ」

というのはどういうことなのか。  

素というのは、質素、素朴ということでしょう。

つまり飾り気を取って素地を顕わにしなさいと

言っているわけですが、その素地というのがどんなもので

あるかが問題です。

これも要約すれば質素に無欲に過せば争い事がそれだけ減る

飾り立て豪勢に贅沢に成ればなるほどに争いの種が増える。

次のクダリの「樸」という言葉は他の章でもたびたび出て

くるのですが、本来の意味は山から切り出したばかりの木のことです。

もちろんこれは比喩であって木を抱えていろというわけではありません。

これは後で説明します。

「私を少なくし欲を寡なくせよ」というのは

上述したので特に説明の必要はないでしょう。

全体として、とても善い人であるというイメージですが

素朴で人がいいだけで国が治まるのか、ということになるわけで

ここでのキーワードは先ほどの「樸」ということになります。

其の雄(ゆう)を知りて其の雌(し)を守れば天下の谿と為る。

天下の谿と為れば、常の徳は離れず、嬰児に復帰す。

其の白を知りて、其の黒を守れば天下の式(のり)と為る。

天下の式と為れば、常の徳はたがわず無極に復帰す。

其の栄を知りて、其の辱(じょく)を守れば天下の谷と為る。

天下の谷と為れば、常の徳は乃(すなわ)ち足り樸に復帰す。

樸は散ずれば、即ち器となる。

聖人はこれを用いて、則ち官の長となる。

故に大制は割(さ)かず。(老子・28章)  

この章では非常に大切なポイントをいくつも述べています。

まず「其の雄を知りて、其の雌を守れば」ということから

老子はあくまでも陰陽のバランスを重視していることがわかります。

すなわち男性原理と女性原理を併せ持つことこそが大事なのであって

老子に見られる消極性というのは内に強さ・積極性を秘めたもので

あるわけです。

単に柔軟な態度ということではない。

ここがとても大事なところです。

その二つの要素が偏りなくあって、はじめて「天下の谿と為る」。

谿というのは難しい字を使っていますが「谷」と意味は同じです。

そして老子において谷というものは象徴的な意味を持つ言葉です。

「谷神(こくしん)は死せず是を玄牝と謂う」(老子・6章)

「天下の谿と為れば、常の徳は離れず、嬰児に復帰す」。
作品名:第10 作家名:万物斉同