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ナノク(nanoch)
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novelistID. 28988
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ロバート・キャパの夜は更ける

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「おとうさん」
「どうしたの」
「ねむれないんだー」
「そうだったのか、じゃあなにかはなしをしてあげようかそしたら眠れるかも」
「いやいらないンだー」
「どうして」
「もう、そのはなしはみきったから」
「・・・・」
「・・・」
「そかー」
「そだー」

  ロバート・キャパは撮影中の事故で奥さんを失っている。スペインの内戦で銃弾に倒れる一人の兵士の姿を撮影し資本主義世界にその名をとどろかせたキャパは、保護を受けた人民軍の戦車の運転ミスで奥さんを失ったのだった。ロバート・キャパとは架空の人物であり、同じくカメラマンであった奥さんとの共通のペンネームだった。エンドレ・フリードマン、ハンガリー生まれで、のちにロバートキャパとしてアメリカ人として知られる彼は、インドシナ従軍で地雷を踏んで死ぬまでこの架空の名に拘り、奥さんについて多くを語ったことは無い。ひとたび報道の世界で名声を手に入れれば、そんなことは些細なことになるのだろうか。真実はキャパの撮影した写真と同じく、彼の思い出の中にだけある。 アメリカの報道王、ジョセフ・ピュリツァーの報道賞を受けた、頭を貫かれた兵士が写るイタリア革命の衝撃的な写真についてもまた、キャパが多くを語ることは無かった。

 かつて表現の縁を広げることが前衛と呼ばれた時代もあった。前人未到の芸術の土地へ旗を立てる冒険家は前衛作家と呼ばれた。芸術は媒体と足並みをそろえて、技術革新をしていた。誰もが無限に、永遠に人間は進歩していけるものと信じた。いつか私たちは、月を、火星を、支配するものになるだろう。
しかし、もはやそれは失われた世代となって我々の思い出の中にだけある。

今もキャパの写真は様々なかたちで切り取られ、解釈され続けている。真実という名のなま皮はすべて写真からはぎ取られていて、人々が求めているものもまた、そのような、その時期その時期でそれなりの答えが出て、それでいてまた別の解釈のできるようなあいまいな偶像だ。何か深刻で大きなことがらについて、大声をあげて自分たちの物語を語り合えるようなセリフや舞台。たいした事件も起こらなかった中国でキャパはいくつかの戦争を過ぎ越し、第二次世界大戦ではノルマンディー上陸作戦に従軍して、フレームが恐怖でふるえてしまっている印象的ないくつかの戦場の風景を撮影した。

 まだテレビの無かった時代、人々はキャパが代表した「報道する獣」を愛玩した。真実というなま皮をはぎ取り、様々な解釈のできる、こうばしい一枚の真実をもたらしてくれるようなけだもの。世界の縁にわざわざ出向いて、絶望とも希望とも受け取れる両義性を兼ね備えた、その実何の意味ももたらさないくうきょなノルマンディーの写真はともだちの家の寝室の壁にキュビスト岡本太郎のエッチングとともに飾られている。

「おとうさん」
「ナンダ」
「なんでかたかなでしゃべってるの?」
「ベツニイミハナイ」

「おとうさん、机の上の方錐型のハリガネはなあに?」
「ン?これは冷害アンテナと言う。これになまにくを刺すとなまにくが腐らないんだ」
「雑誌((学研ムー1980年 9月号(創刊6号) 【特別企画】キミにもできる超能力開発法 超能力研究会ほか))で見て買ったの?」
「うん、まあね」

 初めはちいさな黒いしみのようだった電子の粒は、
今ではいたるところで見かけるようになった。

テレビのダイモンといわれる電子は
とりわけ家庭に、
子供に目を向ける。

ダイモンはいつも子供を見ている。
そのとき子供がなぜ笑い
なぜ喜び
なぜ泣いたのか

今、子供たちが欲しいものはどんなものか
どんなことが子供たちの間で流行していて
子供たちにとって正義とは 悪とは
子供たちにとって何がリアルか
子供たちにかんすることを
なんでもしりたがっている

ダイモンは、子供たちがだいすきなのだ。

赤ん坊が生まれたばかりのとき追うのも
この、大人たちの目には見えないダイモン
という存在を、追っているのである

その光の粒が受肉した存在、
テレビジョンが子供たちを見守って百年ほど経つ。

その粒子の中にはキャパの妻である
ゲルダの電子も含まれている事だろう。
もちろん、その夫
ロバートキャパで知られる男も
含まれる事だろう

光とは波であり、
目に見えない力は電子となって我々の回りの空気を形成する。
光とは泡であり
絶叫とともに私たちの世界を
強固な形にする。
かたち、色、泡、光。

アッギーのフィルムと同じく、
伝説の写真家ロバート・キャパ(ゲルダ・タロー=バーンディ)
の撮った写真は同時に
テレビショーの黎明期も飾り続けることだろう。


死とは形を持たないもので元来意味も持たないものだ。
畏れとともに受け入れられる死は、
同時に安らぎを与えてくれるものでもある。

都市にいる人々は
テレビという村々で
繰り返しこの死のイメージを反芻し、
また共有する。

生々しいテレビのニュース映像も、
切り取られればその意味するところ最後は死だ。

夜がくればテレビの電源は落ちる。
初めてブラウン管が世界に登場したときと同じ
RGB(レッドブルーグリーン)の光は
濁ったただの白い四角になり、
それもだんだんと小さくなり、
ブラウンの管のまんなかで
やがてひとつの粒になってこの世から去っていく。

「きょうはもうお休み」
「はい、おとうさん」
「シャダウを眠らせシャダウの街に雪は降り積む、なんつってな」
「はい、おとうさん」

そして、誰の上にも死は訪れる。