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「私はあの人を愛しているのかしら」

 彼女はポツリ、とそう言いました。視線は目の前の僕ではなく、彼女の膝の上で固く握られている自分の両手に固定されています。切羽詰まったような、しかしどこか虚ろな表情で、彼女は続けました。
「わからないんです、どんなに考えても。あんなに立派な人がどうして私なんかの傍にいてくれるのか。考えても考えても…わからない。わからないわからないわからない…わからないんです。あの人が、何を、望んでいるのか」
 よく見ると、彼女はかたかたと小刻みに震えていました。
「どうして私なの…?どうして…どうして…どうして…どうして」
 まるで呪文のように、彼女は繰り返します。そして僕は、きっと彼は彼女のこんな姿をみたことなどないのだろうなぁと思いました。彼の隣にいる時の彼女は、いつも穏やかに笑っているからです。知っていても、見たことはないのでしょう。
「だけど、彼にはあなたが必要ですよ」
 僕は慰めのつもりでもなんでもなく、ただ事実のみを口にしました。彼女はその瞬間、ビクリと大きく体を揺らし、信じられないといった目で僕を見ました。
「彼は何も望んでいませんよ。あなたがいるだけでいいのです。だから、あなたはあなたが思うことだけをすればいいと思います」
 暫く僕達の間には沈黙が流れました。彼女はまるで何かを探すように、きょときょとと忙しなく瞳を泳がせます。僕はその姿が小動物に似ていて、なんだか可愛いなぁと、場違いなことを考えていました。
「わかりません…私がしたいことが、なんなのか」
 途方にくれた声で、彼女は言いました。
「したいことなんて、ないんです。ただあの人の邪魔にはなりたくないのです。あんなに素晴らしい人が、私なんかのために心を痛めてほしくなどないのです。だから、私はあの人の心にせめてほんのわずかでも報いなければと思うのです。彼を愛さなければと。だけど、どうすればいいのかが、わからないのです」
 彼女はついに両手で顔を覆ってしまいました。泣いているのかと思いましたが、涙が流れている気配はしませんでした。彼女は、悲しみに埋もれてしまうような弱い女性ではありません。けれど、全てに立ち向かえるほどの強さを持っているわけでもないのです。そのアンバランスさが、たまらなく愛おしいのだと、彼は僕に話してくれたことがありました。その時はただの惚気にしか聞こえませんでしたが、今ならなんとなくその気持ちがわかるような気がします。強くて弱い彼女は、とても美しくて尊いもののように僕の目に映ったからです。
「あなたは、偽らなければいいと思います」
 僕は彼女に言いました。僕の声が今の彼女に届いているのかはわかりませんが、僕は彼女に伝えなければならないと思ったのです。
「彼にとってのあなたが、どれほど救いになっているのか、あなたは知っていますか?それだけでいいのだと、僕は思います。無理に心を偽らなくてもいいのです。偽ることは、辛いでしょう?辛かったら、悲しいでしょう?彼はあなたが悲しむことを、自分のことのように嘆くと思いますよ。そうしたら、あなたはもっと辛くて悲しくなって、彼ももっともっと辛くて悲しくなります。それは、あなたの望むことではないでしょう?ですから、どうかあなたはあなたのままでいてください。それが彼の望む全てです」
 気のせいかもしれませんが、彼女の首が微かに動きました。肯定を示す方向に。僕は、とても満ち足りた気分で思いました。心で思っただけなのですが、あまりに満ち足りた気分だったので、もしかしたら声に出てしまっていたかもしれません。

「あなたは、彼を愛していますよ。愛しているから、偽る方法がわからないだけなのです」
作品名:無題 作家名:R.M