永遠論
宇和島から移動して、昼前に四万十市に入った。久々に眺めた四万十川は爽やかだった。靄がかった小雨の降る河原にカヌーを背負う人の後ろ姿を見た。鶯が啼いている。コジュケイも啼いている。頭に日本地図を描き、現在地を想う。四国の外れの外れを。
中村もかつて訪れた町だった。自転車に乗って土手を走り、かんぽの宿へ行った。その記憶も霞のようにうっすらと漂うだけだった。強いて言えば、現在の自分のほうがリアルな気がしない。ほんとうにいま、ここに、いるのかどうか不安になった。
昼食に鰹のたたき丼を食べ、ほぼ50キロ先の足摺岬へ走った。かなり道路は整備されてはいるが、途中の山道はすれ違うこともままならぬ細く狭き道で、譲り合うという前に、いつ出会うかの問題で、タイミングが悪ければどちらかがバックして、少しでも広いところへ移動しなければ、にっちもさっちもいかないのだ。
しかし地元の車は容赦なく向かってくる。理屈で言えば一ミリでも触れなければぶつかったことにはならないので、身体感覚で安全を覚え、スピードも下げずに真正面から来る。余所者のワタシはやはりビビる。ビビるが向かってくるなら向かってやるぜとお互いに強気で接近する。物理で教わるが、60キロ同志がすれ違う訳だから、その出会った瞬間は120キロになって、動体視力もままならぬスピードで人生を生きる。
もしもぶつかったら?という疑問が終わらぬまま、すれ違う。もしかしたら、人生の終わりもこんなものかと思う。そうこうしているうちに岬に着いた。南国の湿気を感じる。植物の匂い。空気が重い。四国最南端は太平洋を見下ろしていた。椿林の道を歩き、灯台へ。アーケードのように覆われていて、薄暗く、セミの大合唱に出迎えられながら進むと灯台はあった。
絶壁だった。果ては果てとしてある。また地図を思い描く。ここがココなのか。意外にあっさりとした実感に自分でも驚く。感想はそれほど大きくはない。ただ達成感はある。ここがなにかの「終わり」なのだと。終わりは何事にもある。それを知ってしまうことが、なぜか淋しい気持にもなるものなのか。
灯台からの戻り道で、クワガタの雌を見つけた。久しぶりに間近に見て、瞬間的に子供に帰った。黒光りするその小さな身体が美しい。地球レベルの映像と目の前の映像が交互にズームを変えて見える。眩暈がする。太平洋に浮かぶ島の片隅で、黒い生物をみつめる自分を、「みる」。
展望台へ行き、お遍路三八番のお寺金剛福寺でお参りし、中村へ帰った。時折すれ違うお遍路さんを見て、自分をそこに当てはめてみる。黙々と歩く人をみながら、少しぞっとするのだ。自分には出来るわけがないとまず思うから。そして八十八か所周っても果たして、何かの「果て」を知ることになるのだろうか。それが目的ではないだろうが、達成しただけで満足なのだろうか。なにが見えるのか。見えないものが見えるようになるのか。
ホテルの部屋に入ると疲れの波に襲われた。けれど、あの本を読まなければと思った。それはさき程までの文脈から、あの小説の「果て」を知りたいようなしりたくないような、または自然を前に沈黙する鑑賞者のような気持ちになった。ゆっくりゆっくり読んでいたが、終わりはくる。それは突然やってきた。
その終わり方は、あたかも終わりではないかのように、ふっと最後の短い一行を置いて、持ち主が消え去った。ああ、これか。この感じが残された「女」の気持ちなのか。「男」はある理由で去っていく。その理由も曖昧なまま。そうしなければならないような、そうでないような。二人は電車に乗る。外国だ。人気のない駅。プラットフォーム。「男」はすべてのものが相反するもので満たされていった。
「・・・けれど、止まったり、かけ抜けたり、止まったり、かけ抜けたり、おりていく背も見ず、乗ってくる顔も見ず、暗いのが明るくなり、明るいのが暗くなるのを、固い板にもたれて凝視していると“東”も“西”も、けじめがつかなくなった。“あちら”も“こちら”も、わからなくなった。走っているのか、止まっているのかもわからなくなった。/明日の朝、10時だ」
これで終わる。終わっていずに、終わる。この最後は始まりであるかのようだ。終わらない。そうだ、これは人間について同じことが言えるのではないか。それは「死」である。死んだ人は突然死ぬ。どんな状況であれ、‘生’から‘死’という極限を一瞬のうちに飛び越える。あたかも生きているままに死を受け入れて、死に乗り換えたかのような姿で生を終える。
言い過ぎかもしれない。深読みかもしれない。しかし、この生=小説の終わりは、見事に乗り換わっていく。この感覚が、今日見た、太平洋の水平線を見ているのと同じなのだった。終わりであり、終わりでない。果てであり、果てでない。その一線を越えた一瞬。それが「男」の決意ともとれる、「10時」と決めた一瞬。その一瞬が水平線の曲線に引き伸ばされ、眼の眼に差し出された。これが驚きだった。これが感動だった。
読む終えることを畏れながら読み進め、いざ読み終えてみて、終わらない何かを手に入れた。終わらない終わり。これを永遠と言えばいいのか。いま、この言葉で思い出すのは、ある映画のラスト・シーン。まさに足摺岬のような断崖絶壁で、顔に青空色のペンキを塗り、頭にダイナマイトを巻き、叫びながら崖に向かって走り、映像では引いたキャメラでその爆死シーンをみる。それはあまりにも唐突で、決して悲しい死ではない。黒い煙をあげる崖からゆっくりとキャメラは左にパンし、水平線を音もなく映す。そのバックにランボーの詩が語られる。静謐の中で。現実の中で。
―見つかった。
―何が?
―永遠が。
―太陽と
融合した海が。
(了または続く)
※この二つの作品はとても似ていると数分後に、判った。