朔日の雨
縁側で庭を見てはいつもと変わらぬ平淡な表情でそう、シヲリは呟いた。
この長雨はもう二週間も降っている。梅雨という訳ではないのに、異常に降る雨と曇り空に不安が翳る。
「知ってる? こういう雨って、『淫雨』っていうそうよ。淫した雨……なんて私にぴったりだわ。私も雨に淫してる」
そう語りながら、庭に向けていた顔を俺に向けた。拍子に艶やかな黒髪が鎖骨に掛かる。唇にも銜えるように張り付いている。
湿度が高い所為か、全体的に汗ばんでいるシヲリの肌は透けてみえた。純白のワンピースはシヲリの肌の白さを際立たせている。
「トウヤさん、今日は無口なのね……いつもかしら。それとも私が美人だから見惚れちゃった?」
目を細め手を口元に添えて優しく微笑を浮かべる。俺は、唇に張り付いた髪の毛を取り払おうと手を伸ばした。
だがシヲリはその手を掴んだかと思うと引っ張り、ふたりは冷たい廊下に倒れた。
雨が降り注ぎ石を穿つ音と俺の鼓動と、どちらが早いだろうか……
俺の顔の近く、もう少し近付けば唇が触れそうな距離。シヲリは静かに目を閉じた。だが俺にそれをする資格はなかった。
起き上がると、暫くして寂しそうな表情のシヲリも身体を起こす。
「……この雨の日によくシテくれたのに……いじわるね」
シヲリはそのまま庭に飛び出した。雨脚はさっきよりも叩き付けるように降っている。
見る見るうちにシヲリの服はびしょ濡れになり、小さな隆起が露わになる。この世のものと思えない儚さと妖艶さに刹那、心を奪われた。
「トウヤさん……またシテよ。雨の中で私と繋がって」
縁側にいる俺を誘って手を伸ばすシヲリ。いつも手にしたいと夢にまでみていた人が俺を呼んでいる。
俺は吸い寄せられるように庭に出た。雨に濡れて身体は冷えるばかりなのに、芯は滾るように熱い。硬くシヲリの腰を引き寄せ抱擁する。
シヲリの声が耳たぶを擽る。心地よい甘美な響きだった。だが、シヲリは魘されたように同じ言葉を口にした。
「トウヤさん……雨に包まれて私を淫して」
呪縛から目覚めたように俺は肩を掴んで引き離す。シヲリは状況を飲み込めず呆然としている。
俺は、泣いているのかもしれない。だが、その涙は雨によって覆いつくされてシヲリの目には映らない。
「俺……トウヤじゃないよ。トウヤは死んだんだ……」
「……何を言っているのかわからないわ……だって私の目の前にいるじゃない。トウヤさん冗談はよし――」
「弟なんだ……双子の。トウマだよ。トウヤじゃない。トウヤは……今日のような雨の日に」
「嘘よ! そんな筈ない。昨日だってその前の日にだって私の傍にいてくれたわ。雨の日にだけ、こっそり会いに来てくれた。晴れの日はあの女のものかもしれない。でも、雨の日は私のものだったの。だから、だから、だから……」
「もう、トウヤは死んだんだ。ここに来るつもりだったんだと思う。でも……バイクが転倒して」
シヲリは錯乱して俺の胸を叩いた。何度も、何度も。力強く。否定の言葉を口にしながら……
俺の掴む手を振り解いてシヲリは居間にある仏壇を目に捉えた。
「ううう……ううううう、ああああああああ――」
声にならない咆哮で天を仰ぐシヲリ。その背中があまりにも小さくて、寂しくて、辛くて……俺は後ろから抱き締めた。
「ダメなのかな! 俺じゃあ、トウヤの変わりになれないのかな! 俺は好きだよ、トウヤは二股なんて掛けるから罰が当たったんだ。だからシヲリさんがこんなに悲しまなくていいんだ。こんなに苦しまなくていいんだ。こんなに、こんなに……」
俺も肩越しに雨の所為で掻き消えそうになりながらも、叫んだ。有りっ丈の声で叫んだ!
雨はいつの間にか小降りになっていた。肩を抱かれるシヲリは乾いた声で呟いた。
「……これくらいの雨じゃ……溺れないね。私は雨に……トウヤに淫していたけど……」
立ち上がろうとするシヲリに俺は手を貸す。はじめて清々しい笑顔を浮かべるシヲリ。
「トウマ……さんのいうように、トウヤは死んだのね……私を置いて」
「本当に……俺じゃダメかな。トウヤと同じ顔で思い出しちゃうかもしれないけど……」
「違うわ。トウヤさんはトウヤさん。トウマさんはトウマさんよ」
そういって、また優しく笑った。雲の隙間から陽光が庭に差す。陰鬱な空気は雨と共にあがったのかもしれない。
――五年後、
病院へと駆け込んだ俺は、看護士に注意されながらもシヲリの待つ病室に向かった。
「シヲリ!」
俺の声に反応して微笑みを浮かべるシヲリ。隣には生まれた赤ん坊が健やかに胸を上下させて眠っている。
それを見た瞬間、俺は泣いていた。歓喜の涙だった。
外は陰鬱な雨がしとしとと降り注いでいる。雨に濡れた背広を椅子にかけると、赤ん坊に近付いた。
俺と、シヲリの子どもだった。あのあと、俺の大学卒業を機にシヲリと結婚。小さな工場だが就職もしてバリバリと働いた。
幸せな時間は、すぐに二倍になった。シヲリに子どもが出来たと知ったとき、自分も父になるのだとまだ見ぬ子どもを想像して奮えた。
「シヲリ、よく頑張った。ふたりの子どもだよ。こんなにちっちゃくても生きている。すごいよ!」
興奮が冷め遣らず、何を言っているか自分でもわからない。それほど、俺はこの一大イベントに盛り上がっていた。
そんな俺を見てにこやかに微笑みながらシヲリは話し出す。
「ねえ……トウマさん。私ね男の子がもし生まれたら、付けようって思っていた名前があるの」
外は大嵐になりそうなのか、稲光が轟いている。
「私ね、男の子なら――ってつけようと思うの……」
近くで落ちたのか……シヲリの言葉は天を衝かんばかりの稲妻と轟音で聞き取れない。
だが、シヲリの顔はあの日と同じで、艶然に微笑んでいる。
あのトウヤの死を知って塞ぎ込んでしまったシヲリを、励まそうと訪れた。シヲリは俺をトウヤと勘違いしていたあの日と同じ……
「この子は、トウヤよ。私のトウヤ。私だけのトウヤだわ……ふふ」
――シヲリの冷たい笑い声が病室の中でいつまでもこだまする。俺の中で何かがひび割れ、壊れるような音がした……
終