なまもの
「今日も一段とかわいらしい。この服も、キミに良く似合っている」
男の言葉に姉は俯きながらも嬉しそうに微笑む。男は歌うように姉を褒めちぎる。
その度に姉は、口を噤んで嬉しさと恥ずかしさでいっぱいいっぱいになっている。
私はそんな姉と……話す男をただ傍らで、物音立てずじっと眺めていた。
姉は男の顔を見つめている。男もまた姉に微笑みかける。私が今までに見たことのない饒舌さだ。
姉はお姫様のように男に傅かれながらも、控えめに笑っている。店の扉に備え付けた鈴が鳴った。
男は立ち上がり、姉に少しだけ待っているようにいうと、初めて私の方を見た。
だが、男は一瞥するだけで私の横を素通りし、店へと通じる扉を開ける。
男が帰ってくる間に、私は椅子に腰掛けて少し気落ちした姉に近付いた。
姉は私と口を利こうとしない。長い間、私と姉はケンカをしている。仲直りが出来ないまま今に至る。
姉の肩にそっと手を伸ばす。姉は微動だにせず私のするがままにしている。
私は姉を抱きしめた。私よりも華奢で筋張っている。昔はどうだったろうか。思いを巡らしていると。
「今日は、店終いだから……帰ってくれないか?」
男は、店から戻ってきては、私の背中越しに声を掛けた。
「……うん。明日も来ていいかな?」
「いつも、お前のために開いているわけじゃない。それに私は"なまもの"が苦手だ」
「わかってる。私に構わなくていいから。ちょっと姉さんの顔が見たくて」
私の言葉に少し、逡巡してから首肯する男。
男に挨拶して扉を開ける。姉は男が椅子に座ると途端に生気が宿ったようにみえた。
私には決して見せてくれない顔。男もまた活き活きとした表情。私の居場所は元よりここにはない。
「さよなら」と呟くように言葉を吐いて後ろ手に扉を閉めた。
*
冷え切った部屋。辺りに人影はいない。私はひとり、仏壇に手を合わせる。
あれからもう……三年は経つ。あの日から家族は壊れた。
私もまたあの日から、姉とは口を利いていない。解決できない悩みに私は迷い込んでいる。
*
放課後、またあの店に立ち寄る。
店の正面から入るのではなく、隣接された工房の通用口から足を踏み入れた。
鍵はいつものように開いている。しかし男はいつも定位置にいる場所にはいなかった。
男が仕事をする机の横で、寂しそうに佇んでいる姉がいる。
そっと近付き、俯いた姉の横顔を撫でる。
姉……とは名ばかりの、姉を模した容器。人形だ。
だが人間に見紛うばかりの精巧で美しい人形だ……直視されて恥らうかのように、
そんな風にも見える……
しかし、私の中の姉はもう笑うことはない。悲しむことも、叱ってくれることも、一緒に喜び合うことも……
これはあの男の心を慰めるものだ。
だから私を見て、あのときのように、いつものように笑いかけてくれない。声を掛けてくれない。
姉の人形を見かけたのは最近だった。普段は降りない駅。何かに惹かれて降りてみた。
吸い寄せられるように知らない道を歩いていて。
ふと、店先に座った姉を見つけた。私は自分の目を疑ったが、気付いたときには店の扉を開けていた。
遠目の所為か、私が誰であるかを気付いていない様子だった。
扉の鈴に気付き、店の奥から男が営業スマイルで話し掛けてきた。
「ようこそ、当店に御出でくださいました! 本日は何をお探しですか?」
「あ、あの! なぜ姉がここにいるんですか? 姉とあなたの関係は!?」
捲くし立てる私。言葉に詰まりながらも言いたいことは告げた。
「……姉? 似ていないこともないが。"なまもの"は彼女の妹だといいたいんだな」
「へ? な、生もの!? そんなことよりも、あなたは一体!」
「彼女が好きさ。そして彼女も私を好きだ。私は、なまものとこれ以上、言葉を交わしたくはないのだが」
姉は男の言葉に、頬を染めた……風に見えた。
店内を夕暮れの西日が染め上げたのだ。
――つまりは、私が知らない間に、そういう関係だったのかもしれない。
そして、姉だと思ったのは姉ではなかった。姉の人形だった。
それでも私は久々に会えた喜びで、時間を作っては通い詰めている。
どれくらいの時間私はぼうっとしていただろうか。
いつの間にか男は工房にいた。黙々と作業をしている。隣にいた姉はいつの間にかいなくなっていた。
私は一瞬、姉がいなくなった日と重なり錯乱した。
私は男の背中に言葉をぶつける。
「姉はどこにいったの?」男は答えない。
「どこにいったのか、知ってるんでしょ?」男は答えない。男の規律正しい木槌の音だけが響く。
私は遠慮ない乱暴な足取りで歩み寄り、男の肩を無理に掴み振り向かせた。
怪訝な表情で私を見る。だがその目は姉を見るときのような意思を感じさせない。
「一度だけ言う…… 邪魔をするならもう帰ってくれないか?」
投げ遣りに男は発する。私は肩を掴む手に力が入った。男は唸ったが私は放さなかった。
*
今日は工房に行かなかった。ただ店の中を覗く。珍しくレジに姉は座っている。
あの男とは会いたくなかった。だけど、一言姉に言いたかった。
私はもう目の前にいるのが人形でも、関係がなかった。私にとって姉は姉だった。
ゆっくりと扉を開ける。鈴は鳴ったが男は工房から出てこなかった。
私は姉に近付いた。
姉は寝ているのか……俯いていて目を閉じている。
頑なに姉は私と目を合わせてくれない。
「姉さん……見違えるように綺麗になった。仲直りしようよ、私とは口を利いてくれないの?」
「いい加減にしてくれないか。彼女は話したくないってことだよ」
声に振り向く。言われずともそんなことはわかっている。この人形は男にしか心を開かない。
私と姉は永遠に仲直りなんて出来ないのだ。
「……姉を返して」男に向き直り、痛切に呟いた。
「私に、姉さんを返してよ!」男は黙って私を見つめている。男に訴えても物事は既に解決している。
ただ、姉だけが帰ってこないだけだ。
私と、男の間で静かに佇む姉の顔は凍りつくほど冷たかった。
*
どんよりとした曇り空。今にも雨が降り出しそうだ。
あの日も、こんな天気だったと思う。
喪服の私。両親も、未だ顔は優れない。お墓に手を合わせる。
だが墓の中は空っぽだ。遺骨はここにはない……
三年前、姉とケンカした私は一人残して家に帰った。他愛無い言葉の遣り取りによるものだった。
姉はその日から帰ってこなかった。未だ、行方不明のままだ。
その後、防犯カメラに映っていた姉と一緒にいた老年の男が捕まった。
供述では暴行するつもりで誘拐したと話したが、犯人の示す場所に姉の遺体はなかった。
空はとうとう泣き出したように降り出した。
私の心を投影しているようで、憎らしい。空に唾を吐きかけたい。
私はいつも姉の後をついて回った。家にいても、外にいても。
姉が友達と遊ぶときでも私は姉についていった。姉が好きだったのだ。
身体の弱かった母の代わりに、面倒を見てくれた姉は私のもうひとりの母だった。
男の言葉に姉は俯きながらも嬉しそうに微笑む。男は歌うように姉を褒めちぎる。
その度に姉は、口を噤んで嬉しさと恥ずかしさでいっぱいいっぱいになっている。
私はそんな姉と……話す男をただ傍らで、物音立てずじっと眺めていた。
姉は男の顔を見つめている。男もまた姉に微笑みかける。私が今までに見たことのない饒舌さだ。
姉はお姫様のように男に傅かれながらも、控えめに笑っている。店の扉に備え付けた鈴が鳴った。
男は立ち上がり、姉に少しだけ待っているようにいうと、初めて私の方を見た。
だが、男は一瞥するだけで私の横を素通りし、店へと通じる扉を開ける。
男が帰ってくる間に、私は椅子に腰掛けて少し気落ちした姉に近付いた。
姉は私と口を利こうとしない。長い間、私と姉はケンカをしている。仲直りが出来ないまま今に至る。
姉の肩にそっと手を伸ばす。姉は微動だにせず私のするがままにしている。
私は姉を抱きしめた。私よりも華奢で筋張っている。昔はどうだったろうか。思いを巡らしていると。
「今日は、店終いだから……帰ってくれないか?」
男は、店から戻ってきては、私の背中越しに声を掛けた。
「……うん。明日も来ていいかな?」
「いつも、お前のために開いているわけじゃない。それに私は"なまもの"が苦手だ」
「わかってる。私に構わなくていいから。ちょっと姉さんの顔が見たくて」
私の言葉に少し、逡巡してから首肯する男。
男に挨拶して扉を開ける。姉は男が椅子に座ると途端に生気が宿ったようにみえた。
私には決して見せてくれない顔。男もまた活き活きとした表情。私の居場所は元よりここにはない。
「さよなら」と呟くように言葉を吐いて後ろ手に扉を閉めた。
*
冷え切った部屋。辺りに人影はいない。私はひとり、仏壇に手を合わせる。
あれからもう……三年は経つ。あの日から家族は壊れた。
私もまたあの日から、姉とは口を利いていない。解決できない悩みに私は迷い込んでいる。
*
放課後、またあの店に立ち寄る。
店の正面から入るのではなく、隣接された工房の通用口から足を踏み入れた。
鍵はいつものように開いている。しかし男はいつも定位置にいる場所にはいなかった。
男が仕事をする机の横で、寂しそうに佇んでいる姉がいる。
そっと近付き、俯いた姉の横顔を撫でる。
姉……とは名ばかりの、姉を模した容器。人形だ。
だが人間に見紛うばかりの精巧で美しい人形だ……直視されて恥らうかのように、
そんな風にも見える……
しかし、私の中の姉はもう笑うことはない。悲しむことも、叱ってくれることも、一緒に喜び合うことも……
これはあの男の心を慰めるものだ。
だから私を見て、あのときのように、いつものように笑いかけてくれない。声を掛けてくれない。
姉の人形を見かけたのは最近だった。普段は降りない駅。何かに惹かれて降りてみた。
吸い寄せられるように知らない道を歩いていて。
ふと、店先に座った姉を見つけた。私は自分の目を疑ったが、気付いたときには店の扉を開けていた。
遠目の所為か、私が誰であるかを気付いていない様子だった。
扉の鈴に気付き、店の奥から男が営業スマイルで話し掛けてきた。
「ようこそ、当店に御出でくださいました! 本日は何をお探しですか?」
「あ、あの! なぜ姉がここにいるんですか? 姉とあなたの関係は!?」
捲くし立てる私。言葉に詰まりながらも言いたいことは告げた。
「……姉? 似ていないこともないが。"なまもの"は彼女の妹だといいたいんだな」
「へ? な、生もの!? そんなことよりも、あなたは一体!」
「彼女が好きさ。そして彼女も私を好きだ。私は、なまものとこれ以上、言葉を交わしたくはないのだが」
姉は男の言葉に、頬を染めた……風に見えた。
店内を夕暮れの西日が染め上げたのだ。
――つまりは、私が知らない間に、そういう関係だったのかもしれない。
そして、姉だと思ったのは姉ではなかった。姉の人形だった。
それでも私は久々に会えた喜びで、時間を作っては通い詰めている。
どれくらいの時間私はぼうっとしていただろうか。
いつの間にか男は工房にいた。黙々と作業をしている。隣にいた姉はいつの間にかいなくなっていた。
私は一瞬、姉がいなくなった日と重なり錯乱した。
私は男の背中に言葉をぶつける。
「姉はどこにいったの?」男は答えない。
「どこにいったのか、知ってるんでしょ?」男は答えない。男の規律正しい木槌の音だけが響く。
私は遠慮ない乱暴な足取りで歩み寄り、男の肩を無理に掴み振り向かせた。
怪訝な表情で私を見る。だがその目は姉を見るときのような意思を感じさせない。
「一度だけ言う…… 邪魔をするならもう帰ってくれないか?」
投げ遣りに男は発する。私は肩を掴む手に力が入った。男は唸ったが私は放さなかった。
*
今日は工房に行かなかった。ただ店の中を覗く。珍しくレジに姉は座っている。
あの男とは会いたくなかった。だけど、一言姉に言いたかった。
私はもう目の前にいるのが人形でも、関係がなかった。私にとって姉は姉だった。
ゆっくりと扉を開ける。鈴は鳴ったが男は工房から出てこなかった。
私は姉に近付いた。
姉は寝ているのか……俯いていて目を閉じている。
頑なに姉は私と目を合わせてくれない。
「姉さん……見違えるように綺麗になった。仲直りしようよ、私とは口を利いてくれないの?」
「いい加減にしてくれないか。彼女は話したくないってことだよ」
声に振り向く。言われずともそんなことはわかっている。この人形は男にしか心を開かない。
私と姉は永遠に仲直りなんて出来ないのだ。
「……姉を返して」男に向き直り、痛切に呟いた。
「私に、姉さんを返してよ!」男は黙って私を見つめている。男に訴えても物事は既に解決している。
ただ、姉だけが帰ってこないだけだ。
私と、男の間で静かに佇む姉の顔は凍りつくほど冷たかった。
*
どんよりとした曇り空。今にも雨が降り出しそうだ。
あの日も、こんな天気だったと思う。
喪服の私。両親も、未だ顔は優れない。お墓に手を合わせる。
だが墓の中は空っぽだ。遺骨はここにはない……
三年前、姉とケンカした私は一人残して家に帰った。他愛無い言葉の遣り取りによるものだった。
姉はその日から帰ってこなかった。未だ、行方不明のままだ。
その後、防犯カメラに映っていた姉と一緒にいた老年の男が捕まった。
供述では暴行するつもりで誘拐したと話したが、犯人の示す場所に姉の遺体はなかった。
空はとうとう泣き出したように降り出した。
私の心を投影しているようで、憎らしい。空に唾を吐きかけたい。
私はいつも姉の後をついて回った。家にいても、外にいても。
姉が友達と遊ぶときでも私は姉についていった。姉が好きだったのだ。
身体の弱かった母の代わりに、面倒を見てくれた姉は私のもうひとりの母だった。