井守の話
締めくくりにこうある。(志賀直哉は山手線に跳ばされて怪我をし、その療養でそこにいた)。
「・・・・自分は偶然にも死ななかった。蠑螈(いもり)は偶然死んだ。自分は淋しい気持ちになって、漸く足元の見える路を温泉宿のほうへ帰っていった。・・・・そして死ななかった自分はこうして歩いてゐる。・・・・生きて居る事と死んでしまってゐる事と、それは両極ではなかった。それ程差はないやうな気がした。・・・・」
そんな話を思い出して書いてしまったのは、まあ訳がある。といってもこういう「含み」のある話ではない。昨日までいた尾道で、(そう、彼の所縁の旧居もいった)、似てはいるが非なるもの、非なる体験をしたとでも言えばいいのか、思い込み・妄想系の話ではあるけれど、ワタシにはドキリとした事があったのだ。
昨日の帰り路。陽が落ちる夕方6時半ごろか。急斜面の山の上にあるホテルへと、細くくねった路を、息を切らせて上がっていた時、ちょうど中間あたりか、民家と民家の間から瀬戸内海と、海を挟んだ対岸の向島がよく見えて、ああこれで見納めかと荒い息を落ち着かせながら眺めたりした。
そしてまた灰色のコンクリートで固められた坂道を上がっていくと、ある家の玄関前の路に黒い何かが見えた。何とはなしに顔を近づけると、何かの死骸だった。もっとよく見ると、体が半分に千切れてひっくり返った「井守」だった。あのトカゲのような小さい顔が逆様になって、前足がその体にくっつくようにきちんと添えられてあった。
人の指のような井守の脚は生々しく綺麗に伸びていた。お腹の中の赤子のような指だった。腹部の切れた部分は黒ずんで、死後すぐではないことが予測できた。少し離れたところに切れた尻尾が跳んでいた。何者かにガブリとやられた拍子に千切れ跳び、それには気づかずに殺し屋は美味しいところだけを食べ、呑みこみ悠々と去っていったに違いない。
殺された井守はひっくり返ったまま、そこから空を見上げた。ああ、青い空だな。朝方の雨も止み、昼間は暑かったな。今日は久しぶりに獲物をたらふく食べて、のんびりしてできたな。幸せだったな。でも、なんかへんだ。ああ、そうか逆さまの世界を見ているからか。たまには逆さもいいもんだな。でも少し頭に血がのぼってきたみたいだ。もうそろそろ起き上ろうかな。あれれ、力が入らないぞぅ。うっ、ぜんぜん動かない。手も、あれえ、感覚がないよぅ。どうしたんだろ。それに、目も、目も少しかすんできたみたいな気がするけど、空に雲が流れてきたからかもしれないな。ああ、なんか気が遠くなる。昔、鼻血を出した時みたいだ。目があ、あけてるのが辛い。なんとなく眠い。眠いとちょっと違うけど、似てるような、似てないような。息も、もうしなくてもいいのかな。吸ったり吐いたりするのも力がいるものなんだな。知らんかった。ああ、知らんこといっぱいのまま、眠ってしまうのかぁ。こんなこと、はじめてだから楽しいな。なんでも初めての経験はドキドキする。ドキドキ、ドクドクって音もしなくなった気がする。もう空は見えなくなった。この思い出は二度と忘れないからね。あっ真っ暗になった。真っ暗だ。もう黒い、黒い、世界が黒くなった。黒って、くろって、くろ・・・・、・・・・。
ワタシは一度通り過ぎた。そのとき志賀直哉の井守を思い出した。これをちゃんと見ないとだめだ。ハァハァした息の中で、行動と表情がアンバランスのまま、鞄からカメラをとりだし、真上から撮った。一度目は手が震え、ブレたので、もう一枚撮った。先ほどより拡大して撮った。体が食い千切ったというよりも、刃物で裂いたように綺麗に真横にまっすぐ切れていた。そこに内臓や血が固まって黒ずんでいた。その横に他人のような尻尾が落ちていた。
路はまだまだ急なまま続いていた。足首が鋭角に曲がるほどの角度なので、バランスを崩しそうになりながら登っていった。見晴らしはどんどん良くなり、広い駐車場のところで汗をタオルで拭き取って、海と山を眺めた。その視界からずれたところで、見えてもいない路を見た。仰向けになった井守を思い出し、何かを言いたそうにしていたのかなと思うと少し淋しくなった。
(了)