声
真冬の早朝、人の足が淀みなく流れるプラットホームの線路側で男は上り電車の到着を待っていた。前の列車は開くたび溢れかえる大勢の人を飲み込んで、吐き出されるのはわずかの人とむせ返るような熱気だけだった。それは出立間際の男の乗車をことごとく拒んで発車していく。過ぎ去る列車の車窓からは外気との乖離を示し、曇った窓の向こうで人が隙間を埋めるように密集しひしめき合っているのが見えた。列車に乗り込めなかった男は過密な車内の様子が目の前で通過していくのを呆然と見送った。
この時間、都市部へと向かう上り線は乗り込む乗客の殆どがスーツ姿の男女だった。大多数が社会人で、男を含め乗車目的が一律通勤利用なのだということを踏まえると、この過密列車は社会のため滅法奉仕をする人々を送り出す奴隷船に違いなかった。
男は次の列車の到来を待っていた。すぐさま列を成し始めるスーツ姿たちの先頭に男は立ち尽くし、茫洋とホームを見下ろす。繰り返される各ホームのアナウンスは途切れることなくこだまし、それが何もかも理解が遅い脳に反響して止まない。
吹き抜けのホームでは列車を待ち構える間にも厳しい北風が、時折うねるような突風となって押し寄せてきた。その度に心許なく立てていたコートの襟がはためき、男の申し訳程度の防寒対策をあざ笑うように露出した肌を貫く。もはやその感覚は痛みでしかなかった。
男は逡巡している。
先ほどから頭の中で駆け巡る懊悩は困窮を極めている。この躊躇いのようなものはある迷いから来ていたが、この迷いは果たして二者択一できるシンプルなものでもなかったので男は遅疑逡巡としてなかなか決断できずにいた。しかし決断が欲しいというわけでもなく、しいて言えば背中を押してくれるようなきっかけが欲しかったのかもしれない。例えばそれは通勤ラッシュでごった返す人の流れで、例えばそれは急き立てられるように進行する列車の到来だった。
厳寒の吹き晒されたレールの冷暗を見下ろしているうちに、徐々に思考が、視覚が、一切が不明瞭になる。張り裂けそうな寒さの下で男はぼんやりと躊躇いの輪郭を辿る。弱々しくもはっきりとしたそれは、やがてその意味を捉える頃には待望の列車がレールに沿って緩やかにカーブをしながら徐々にその姿を大きくしていた。それは長い車列の曲線に合わせて男を迷わせる原因へと深く傾斜していく。
男は無意識に線路側へと一歩歩み寄った。男が詰めるのに合わせて続く後列もすかさず前へと詰め寄る。それは列車を確認したためだろうと、誰も男の瑣末な行動変化に不審を抱かなかった。
躊躇の垣根と共に男は黄色い線を踏み越えていく。列車は目前だった。
だがそれでも男に視線が集まることはなかった。明らかに突出した男の前進は異変を感知しはたと停止する。
停止する男の横を見知らぬ女性がすり抜けていく。男はそれをまるでスローモーション再生しているかのように目撃した。フワリと浮かぶまだら色の髪、引き締まった黒いトレンチコートの下から伸びる細い足が何もない場所へと一歩踏み出して、整った横顔を見たその直後、彼女は前のめりに転倒して電車の通過に掻き消された。
――声が、零れ落ちた。
直後パアアアアアン、と汽笛が鳴り響いた。それで目が覚めたように周囲の人々は騒然となって取り乱しだした。叫び声や嗚咽が漏れて駅員と警察が来るまでに朝のホームは大パニックに陥ってしまった。
その渦中で、男は人々が離れていく事故現場のすぐ目の前で立ち尽くしていた。慌しく駅へと駆け出していく人たちに何度もぶつかりながら、それでも男はその場から動けないでいた。
男は声を聞いていた。飛び込んだ女性は確かに何かを発していて、それが耳孔にこびりついて離れないでいる。興奮でもなく絶望でもない、酷く落ち着いた声が零れ落ちてきて、次の瞬間、彼女の音が途絶えた。いくら思いを巡らせても彼女の言葉がどうであったのか、その正答は永久に誰も知ることはない。
男はあの時口を開きかけて落ちゆく女性に何か言葉を投げかけようとしていた。口の中には躊躇った言葉の切れ端がしぶとく残っているように思えた。しかしどんな言葉を言いかけていたのか、現在となっては何も思い出せなかった。ただ、どんな言葉であってもそれが矛盾を孕んでいたであろうことはもはや明白である。どんなセリフを吐けたとしても、すぐさまそれは自分自身に降りかかってくるのだから。
男はそうしてしばし茫然自失としてその場を微動だにできずにいたが、やがて駆けつけた警察官と駅員にはじき出されるようにして現場を離れた。ごった返す群衆に飲まれて改札口まで流されていくその図は先ほどまで男が欲していた勢いそのものであって、それが可笑しくふっと緊張が緩んだ。緊張状態が解消されると同時に硬直していた思考がにわかに活性していくのを覚えた。すると今まで眠っていた感覚が決壊したかのようにあらゆるそれが血管を通し、全身を巡って男を沸き立たせていた。ぞわぞわと肌を逆なでしていく感覚に支配されて、心底から込み上げる言い得ない感情を抑えきれず、男は場違いに口角を吊り上げた。