黒い羊
昔、私はよくマンションの屋上へ行っていた。屋上から見る景色が好きだったのだ。でも、あるときを境に、私は屋上には行かなくなった。
その時の話をしよう……
あれは私が高校二年の頃だった。その日も私は屋上へ行った。珍しく先客がいた。
同じクラスの一条君だった。彼はなんというか…かっこよかった。それに陸上部のエースで、性格もよく、クラスの人気者。クラスの隅で本を読んでる私からすれば、とても遠い存在だった。
彼はフェンスの向こう側にいた。なぜあんなところにいるのだろうと不思議に思っていると、彼はこちらに気付いたらしく
「やぁ、森さん。こっちに来る?」と言った。
いつもの明るい調子の声ではなかった。むしろ暗い感じ。いつもと違うその感じに惹かれて、いつの間にか私はフェンスを越えていた。
彼の隣にたどり着いてから、ふと気になったことを聞いてみた。
「どうして一条君はここに来たの?」
「僕がここに来た理由?死にに来たんだよ」彼は淡々と答えた。私は驚いた。なぜ彼のような人が自殺を?不思議でならなかった。私の表情を読み取ったのか、彼は
「『どうして死ぬの?』とか思ってるね。そんなに死ぬ理由を聞きたいの?」と言った。
私はうなずいた。
「僕は嫌な人間さ。いや、人間というのもおこがましい。醜い化物だよ。そんな自分が嫌になった。理由はそれだけ」
「あなたはいい人だと思うんだけど。クラスでも人気者だし。私はあなたが羨ましいぐらいだよ」
「皆僕のことをそういう風に言う。でも、僕はいい人なんかじゃない。化物なんだ。羨ましいなんて思われる存在じゃない。できることなら今すぐ君と変わりたいぐらいだよ」
「どうして?どうして自分のことを化物だなんて言うの?」
「ずっと隠して生きてきたんだけど、どうせこれから死ぬんだし、教えてあげることにしようか。僕は人の気持ちがわからないんだ」
「誰も他人の気持ちなんてわからないと思うけど」
「そういう意味じゃないんだ。君が言っている『気持ちがわからない』っていうのはその人が心の奥底で何を考えてるかわからないってことだろ?」
「うん。」
「そうじゃないんだ。僕は、なんで今この人が笑ったのか、なんでこの人が今悲しんでいるのか、なんでこの人が怒っているのかがわからないんだよ。なんでそんなことがわからないと思う?」
そんなことになった理由なんてさっぱりわからない。どうしたらそうなってしまうのだろう。私が無言のままだったので、彼は
「答えは簡単だよ。僕には感情が欠けているからだ。」と言った。
「そんなこと、あるはずないじゃない。本当にあなたに感情が欠けてるなら、あんなにクラスの人気者になれるはずない。人の気持ちがわからないなら、どんどん人とずれていくでしょ?」
「僕はそうならないように頑張ってきたんだよ。それでも何度も失敗してきた。小学生のころはいじめられてたよ。皆とずれてたんだ。皆が笑ってるのに僕一人だけ笑わない。皆が泣いているのに僕だけ泣いていない。不気味だろ?子供はそういうのに敏感だからね」
確かにそれは不気味だ。私も積極的に関わろうとはしないだろう。
「だから僕はわかっているふりをしようと努力した。色々な本を読み、登場人物の感情の動きを学んだ。その知識を利用して、色々な人と会話した。皆はまだずれを感じているようだったけど、前より随分うまくいった。会話を繰り返すうちに、クラスの人気者になっていったというわけさ」
「そんなにうまくいったのなら、どうして今から死のうなんて思ってるの?」
「さっき言った通りさ。僕はこんな自分が嫌になった。嘘をつき続けないとまともに生きることもできない自分が。それに、嘘をつくのももう疲れたしね。それに…いや、やっぱりやめておこうかな。これは」
「何?なんて言おうとしたの?」
「随分と知りたがるね、君は。そんなに知ってどうするのさ?」
「理由なんてないよ。なんとなく知りたいの」
「なんとなく、か。自分の気持ちを曖昧にしておけるのは羨ましい。僕もそれができていれば、ここまで苦しむことはなかったかもしれないな。まぁそれはいい。そんなに聞きたいなら教えてあげるよ」
「僕はさぁ、怖いんだ。いつ自分が化物だと気付かれるかが怖いんだ。どうしようもなく怖い」
「怖い?」
「そう。怖いんだよ。僕には色々な感情が欠けてるんだけど、なぜか『怖い』って感情はあるんだよね。なんでこんな感情だけあるんだろうね……どうせなら、何の感情もないほうが楽に生きられただろうに」
確かにその通りだろう。一切の感情がなければ、他人からどう思われていようと、自分がどうなろうと辛くないのだから。
「君にわかるかい?白い羊の群れの中に一匹だけ紛れ込んだ黒い羊の気持ちが。いつこいつはおかしいと気付かれるかおびえて暮らす黒い羊の気持ちが。きっとわからないだろうね…さて、遺言もそろそろ終わりにしようか」
「死ぬの?」
「うん。もう言いたいことは言ったしね」そう言ってから、彼は靴を脱ぎ、きっちりとそろえた。その下に白い封筒を置いた。
「それは遺言状?」
「うん。その通り。今言ったことは大体遺書に書いておいた。あ、でも化物だとばれるのが怖いってところは書いてないなぁ。君と僕だけの秘密だね」
「君は止めないんだね、僕のこと」
「私が止めてもあなたは死ぬでしょ?違う?」
「いや、違わないね。大正解さ」
私はじっと彼を見ていた。彼はこれから死ぬというのに清々しい表情をしていた。
「一条君、なんだか気持ちよさそうに見える」
「あぁ、これが気持ちいいってやつか。なるほどね」
「じゃあ、僕はそろそろ逝くよ。じゃあね、森さん」
「じゃあね、一条君」
「さようなら」
そういって彼は飛び降りた。私は下を見なかった。怖かったのだ。彼の死を見るのが怖かったのだ。急いで階段を下り、自分の部屋に戻った。あの場所にいたくなかった。
そしてそれ以来、あの屋上には行っていない…
おしまい