意味無用
書きあげた図面と一緒に施工に必要な資材リストのデータをメールに添付して、送信済みになったことを確かめると、背もたれいっぱいに身体を押しつけ両手を伸ばしながら背を反らした。
椅子の軋む音と背骨がなる音に気づいたのか、さっきまで暁の後で鼾を立てて丸くなっていた無恤(ムヒュル)が前足をいっぱいに伸ばしお尻を持ち上げてあくびをしている姿が逆さまに見えた。
「ムヒュル」と、逆さまのまま暁は声をかける。
姿勢を戻し、座ったまま無恤の方に向きを変えるよりも早く、彼は暁の足元に駆け寄った。お座りしながらくるりと右に巻いた尻尾を小刻みにふりふりしている。
暁を見あげるその目は語りかけているようだ。
『やっと終わったのかい? お疲れさまだったよな。ちょっと散歩にでも行くかい? それに、もう晩御飯の時間もとっくに過ぎているぞ』と。
見あげる無恤の頭をぽんぽんと押すように撫で、パソコンの電源を落とすと、暁は右ひざに――負担が掛らないように席をたった。
ゆっくりと右側に体重を移動させてから歩みを始める。車でいえば暖気運転だ。
暖気運転。頭で考えてはいない。壊れた右ひざとはもう随分と長い付き合いなのだから身体が勝手に覚えていてくれて、そうさせてくれるのだ。
暁は思う。自由がほんの少し足りない分だけ、その補い方を命はどこからか不思議に導きだしてくれるのだ、と。
「よし! 無恤、スーパーに買い物に行くぞ」
暁の足元を跳ねるように数回くるくると回り、無恤は暁を振り向きながら仕事場を先に出て暁を導くように階段を上がって行った。
開拓されたこの丘陵地で暁と無恤は暮している。地形をそのまま活かしたせいか、住居兼仕事場の家は丘の端を削った敷地に建っていて丘側に面した部屋の窓に遮るものは無く、小川に沿った桜並木の農道と畑や田んぼが広がっている眺めを見下ろせる。
無恤との散歩道。スーパーへの買い物の道。
「今夜は出掛けるのがかなり遅くなったな……」
ゆっくりと坂道を下り農道まで行くと、田んぼには水も入り稲が植えられていた。待っていましたとばかりに、どこから何時の間に現れたのか分からない沢山の蛙。大合唱だ。
右ひざは少しだけ鈍く痛むけれど、脇を流れる小川の水音と湿った土、稲や道端の草の青い匂いが――心地良い。
小さな蛙が目の前を田んぼから小川の方に向かってぴょんぴょんと横切ったので、立ち停まる。無恤も蛙に気づいたらしく少し興奮して追いかけようとしたがリードを引くと、道端の草の匂いを嗅ぎ、片足を大きく上げておしっこをした。
ふと家を見あげると、地下の室の窓から灯りが夜闇にくっきりと四角に浮かび上がっている。仕事場の灯りだ。消し――忘れた。気づかなかった。
毎日見下ろして眺めていたはずの田んぼに水が入り、稲が植えられていたのが窓から眺めていても気づかないのと同じように、部屋の灯りがこんなにも闇夜の中では浮かび上がるものだと頭では解っていても、こんなにも鮮明に感じることは無かったと暁は思った。
闇が濃ければ濃いほど、深ければ深い分だけ、針先ほどの一条の光であっても輝くのだ。
そこは、闇ではない。と。
「無恤」と、暁は呼んだ。くるりと右に巻いた尻尾を振りながら暁を見あげる。
頭をぽんぽんと押えるように撫でる。ぽんぽん好きなんだな、きっと。
一旦は捨てられ処分され、殺された――犬。
ムヒュル。だから、無恤と暁は名付けた。
脈打つ心臓と熱い血を持たない。
運命や定めというものがあるとしても、それは既に三年前に――終えたのだ、と。
暁は思う。無恤を引き取って本当に良かったと。
もしもこの犬に出会えなければ、きっと今も同じことを考えていたかも知れない、と。
生きることの意味や、自分の存在する価値。生きていることの意味や目的。生甲斐。
そんなことをよく考えていた。
夢や希望、目標、目的を見失い無くしたり、奪われたり、自分は不幸だと。
生きることの意味。意味などいらない。あっても邪魔にはならないけれど、無くとも不便なものではない。
無恤は決して人間の言いなりになる犬ではない。感情の表現もするし、要求もする。
しかしそれらは全て、生きる生き続けるためのものなのだ。
そのことを暁は無恤に教わったのだ。――自由で有り続ける心。
生きることの価値の有無を考えることの方が意味がないのではないか、ということを。
じぶん自ら源を選ぶことは許されず、いつか死ぬ日が確実に訪れることを前提に、この世に送り出された命。その日を迎えるために生きているのではないか、と。
自ら欲し望み選んだ源や命でもないけれど、自分の持つ心だけは自由になるのだ。
自由――。そう――、自由で有り続ける心。
「無恤」暁は再び名を呼んだ。
よほど腹を空かしているのか、暁を見上げずに無恤はスーパーの方へ向って先に歩きだした。(了)