英雄の環
しかし世界は平和になってしまったので、彼の仕事は無くなってしまった。
皆から愛された彼の面影は砂で出来た細工よりたやすく崩れ去っていき、飯の種にすらならぬ思い出だけが残って、彼の心は砂よりも渇いて渇いて渇ききって行く。
「畜生、お前らもっと憎み合えよ! 殺し合え! 悲鳴を上げろ! そして俺の名前を呼べよ!」
潤沢を望んだ彼は、街中でこう叫んで暴れ出した。
廃業したとはいえ彼は元はヒーローだった、道を行くなんの力も持たない人々を薙ぎ倒すことなどとても簡単だ。
杖をついて歩く老人を蹴り飛ばし、恋人たちが繋いだ手を握りつぶし、泣いている幼い子供を殴り飛ばしていく。
人々はヒーローの名前を呼ぼうと思った。けれどその名前が思い出せない。ヒーローの思い出は遠い昔に形を失くし、さらさらと音を立てて風に運ばれて行ったのだから。
「やめろ、この人でなし!」
彼が暴れ始めてから少しの時間が経ったころ、逃げ惑う人々の流れに逆らって飛び出してきた者があった。まだ若い、しかし目をきらきらと輝かせた青年だった。
取っ組み合いを始める彼と青年、ややあって青年が彼を取り押さえることに成功する。
「やった! あのキチガイを取り押さえたぞ!」
「ありがとう、ありがとう勇敢な青年よ! 君こそが本物のヒーローだ!」
「新しいヒーローの誕生だ、ばんざーい!」
青年のまわりに、人々が集まって輪を成していく。その中心で、青年は照れ臭そうに笑っていた。
すっかり乾燥してしまったかつてのヒーロー、彼は警官に手錠を掛けられながらその光景を見守っていた。
「畜生、畜生、畜生」
彼は涙すら流せない。からからになった喉から掠れた声を絞り出すだけ。
一人のヒーローが死んで、一人のヒーローに生まれ変わった。それだけのお話。