父を殺した人
父を殺した、とはいえそれは事故である。
オートバイで単独事故を起こして転倒した父が反対車線に投げ出され、その人は父を避ける事ができず轢き殺してしまった。
通夜の日、その人は両親と一緒にうちに来て、泣きながら謝っていた。泣いていたのだ。その人は。
私はその時、泣きたいのはこちらだと思った。ああこの人は泣いていて可哀相だなどとは微塵も思わなかった。
とにかくその人はずっと泣いていた。手で顔を覆って泣いていた。一度も顔を上げなかった。だから私はその人の顔を知らない。
けれどそれは救いだとも思う。私はその人と街ですれ違っても、その人だとは気がつかないだろう。その人の名前も住所も知らないものだから、さらに顔も分からないとなれば探しようもない。私は一生、二度と『父を殺した人』と出会わずに済むのである。
それでも私はその人を夢に見ることがある。
もう十年余りの時が経った今でも。
今ではもうその気持ちも薄れてきたのだけれど、当時の私は誰かその人を死刑にしてくれはしないかと本気で願っていた。恐ろしい願望である。けれどそう願わずにはおれなかった。私はそのくらい、父のことが好きだった。
事故だから諦めろというのは酷な話である。だって相手がいることで、『父を殺した人』という存在がそこにあるのだ。私にとってはそれは立派な殺人で、その人は人殺しに他ならないのだ。
けれど大人になった今では、その人を思い遣る事もできる。突然地を滑って飛び出してきた父を避けれよう筈もないし、何よりあの人自身が人を殺した現実に苦しんでいるだろう。
それでも私は夢の中でさえ、一言「許す」と告げることができないでいる。
私は自分自身を狭量な人間だと思う。
何故、その人を許すことができないでいるのか。私は父の事はとうに諦めているのに。
否、諦めていると言うのは語弊があるかもしれない。私は父の事を、もう遠い思い出の彼方に追いやってしまったのだ。心の幼かった私が抱いた父が生きて戻るという幻想ももう抱いてはいないし、抑え切れなかった憎悪の感情ももうすでにどこにもない。
それなのに私はその人を許せずにいる。何故か。
その答えは一生見つかることはないのかもしれない。
私は一生その人を許すことができないのかもしれない。
けれど私は許したいと思っている。
許したいと、思っている。