ありがとう、と言いたくて
「何してんの?」
すぐ後ろから声をかけられて、夢想から現実に引き戻される。
振り向くと、彼が不思議そうな顔で私を見ていた。
「ケーキ? 手土産はもう買ったろ」
「うん、けどこれ、ちょっと気になって」
ショーケースの一点を指しながら言うと、彼も「へえ?」と物珍しそうな反応はしたものの、「けど食いにくそうじゃん、そんなの好きだったっけ」と続けた。
ちょっとばかりがっかりしつつも、顔には出さずに言葉を返す。
「好きっていうか、見るのはおもしろいよ。可愛いし。ここのお店よくこういうの出してるから、通るたびにチェックはしてる」
「で、今も見てたわけ? 余裕だなあこんな時に」
少し呆れたように笑われて、そういうわけじゃないけど、とつぶやいたものの、それ以上の言葉は出せなかった。
……やっぱり、この様子だと忘れちゃっているのかな。
彼と再会したのは大学に入った直後。語学のクラスが一緒で、最初の講義で席が偶然隣になった。すぐには思い出せなかったけど、出欠確認の名前を聞いて、もしかしてと尋ねてみたら本人だった。
残念ながら彼の方は、私のことはあまり記憶になかったらしい。だけど担任の先生やクラスで目立っていた子たちについてはけっこう覚えていて、そこから話が広がり、数ヵ月後には1対1の付き合いが始まった。
それからさらに数年。秋に、私と彼は結婚する。
今日は彼の両親に正式な挨拶をするため、彼の実家におじゃまする。途中でデパートに立ち寄って手土産のお菓子を買い、出口に向かいかけたところでこの店の、季節限定の新作ケーキに気がついた。ご両親には何度か会っているとはいえ緊張するし、余裕があるわけじゃないけどそれでも目が離せなかったのは、かたつむりの形をしていたから。
――あの時、彼が探し出したかたつむりは、熱が引いた時にはもういなかった。立ち尽くしている間に逃げたのか、母親か近所のおばさんが逃がしたのかはわからない。せっかく探してくれたのに申し訳なくて、話しかければきっと聞かれると思ったから伝えにくくて、そんなこんなでお礼も謝罪も言いそびれた。
何年も月日が過ぎて、普段は忘れていても、ふと思い出すとちくりと胸の痛む思い出。
けれどしばらくの間、高校から大学にかけての何年かは本当に忘れていた。思い出したのは彼と付き合い始めた後、1年近く経ってから。
彼のことは覚えていたのに、どうしてあの出来事を忘れていたんだろう? 自分の記憶力が不可思議でしょうがない。もともとの申し訳なさと、忘れすぎていたことの後ろめたさが重なって、今に至るまで彼に『覚えてる?』と聞けずにいる。
「ほら、時間過ぎるぞ、行こう」
黙ってしまった私に、彼が手を差し伸べる。私のよりずっと大きな手のひらと、見上げれば必ずある微笑み。昔の彼とは違うけれど、あの時、特に仲良しでもなかった私のために足を止め、かたつむりを探してくれた彼は昔と変わらずそこにいる。
一生一緒に生きていくこの人に、言い残したことを抱えたままでいたくない。その思い自体が自己満足を望むゆえのものだとしても、伝えたい。
その気持ちが急激にふくらんで、胸のうちからあふれ出した。
伸ばした私の手をつかみ、引いてそのまま歩き出そうとした彼の手を、今度は私が引いた。彼が軽く目を見張って振り向く。
「どうした?」
「あの、ね、……」
息を吸い込む。忘れているかもしれない。でも言えば思い出してくれるかもしれない。
10数年分の記憶の底から、想いをすくい上げ、言葉に変える。
「かたつむり、あの時ありがとう」
きょとんとした彼が、少しの間の後、表情を動かす。
その先に微笑みがあることを信じて。
作品名:ありがとう、と言いたくて 作家名:まつやちかこ