呼び寄せるもの 第二弾予告
自室のパソコンに向かってから一時間。834文字まで打って、そこから二進も三進もいかない。
そもそも何故倫理学の講義などを取ってしまったのかが悔やまれる。
今すぐタイムマシンに乗って4月のシラバスを読み、レポートの講義って楽だよねと言っている自分を殴り倒し、日本海に沈めに行きたい。
必修ではないのだから倫理学の2単位くらい落としてしまってもたいしたことはない。
たいしたことはないが、あと1166文字打ち提出すれば少なくともCの評価がつくことは先輩から聞いている。
400字詰め原稿用紙にして三枚にも満たない文字数だ。
高校の時の夏休みの読書感想文10枚に比べれば軽いはずだ。
軽いはずなのだが、圧倒的に俺には出席日数が足りない。プリントが足りない。ノートが足りない。
友人にノートを借りたいところだが倫理学は基本一年生の講義で二年で取っている友人はいない。
頼みの綱は一年だ。
パソコンをスリープ状態にして薄い財布をポケットにねじ込み、大学まで走った。
下手糞なベース音が響き渡る酒と煙草臭いサークル棟の一番日当たりの悪い部屋の扉を空ける。
中には真面目にゼミの準備をしている女生徒。その横には試験勉強という名のテレビゲーム大会をしている者も。
大腸菌を全滅させてしまい死にそうな顔の院生の横を通り抜け、伊藤先輩のもとに向かう。
「伊藤先輩。トノは、渡野近は」
「渡野近君?今日は見てないよ。何か用事?」
「明日の12時締め切りのレポートを提出できるかどうかは渡野近にかかってるんです。確かトノも取ってたはずなんすよ」
後輩の渡野近は顔と学年と出身地は知っているがケータイのアドレスには登録していない程度の仲の良さだ。
大学の成績優秀者らしい伊藤先輩は呆れながらゼミの連絡網のファイルを開く。
伊藤先輩と渡野近は同じ高校出身と聞いていたけれど彼らも親しいわけではないのだろうか。
伊藤先輩はちょっと変わってるし、渡野近も大人しいやつだし、二人がどういう関係か、何を考えているのかはわからない。どうでもいい。
今は何よりも単位が大事だ。
伊藤先輩からファイルを渡されて、11桁の番号を押す。3コール目で繋がる。
「もしもし。渡野近?オレオレ」
ぷつりと通話が切られた。
どうやらオレオレ詐欺だと間違われたようだ。
伊藤先輩のケータイからかけなおしてもらい、ようやく渡野近にノートとプリントと参考文献を貸してもらう約束を取りつける。
通話を切り、本棚に広辞苑を取りに立った先輩にケータイを返そうと一歩踏み出したところ、つま先に何かがこつんと当たった。
見ると足元に赤いお守りが落ちている。身をかがめて拾い上げる。知らない神社の名前と厄払いとだけ書かれている。
「伊藤先輩。ケータイありがとうございます。あとこれ落ちてましたけど先輩のですか?」
先輩は俺の顔とお守りを見比べ、俺の手から携帯電話だけを受け取った。
それはあげるよ、と言ってお守りは俺の手に握らせる。
「え?いや、いいですよ。伊藤先輩のお守りってなんか呪われそうじゃないですか」
「でも藤宮君が触ったものって……ばっちい」
ばっちいって。
まだキモイと言われた方が救われた気がする。
ばっちいって本当にバイキンか汚物みたいな扱いじゃないか。
その後も俺が触ったものは生理的に受け付けないとか、俺と比べるとゴキブリを触ったほうがまだマシだとか、一年分ほどの心の傷をつけられつつ丸め込まれてしまった。
渡野近から約束どおりノートその他を借り、翌日には無事にレポートを提出した。
今度はノートその他を渡野近に返すために、休日を楽しみ家へと帰る人たちとは逆方向に駅を進み、駅前のコーヒーショップに入った。
奥のテーブル席に渡野近は座りケータイを弄っている。
意外なことに渡野近の前には先ほどまで人が座っていたであろう痕跡があった。
「もしかしてデートだった?」
急に背後から俺に声をかけられて、渡野近はテーブルの上にガシャンと携帯電話を取り落とした。
渡野近が動転している間に向かいの席に座る。
空いたカップの縁にはうっすらと口紅の跡が残っている。
盛大にからかってやりたいところだが、席に座った瞬間に鼻を刺す悪臭に口に手をあてた。
「これ、何の臭い?生ゴミでもぶちまけたか?」
「ああ。まあちょっと……。それよりノート」
適当にはぐらかされ、渡野近にノートその他を返却する。
渡野近は気にしていないようだがこの店の臭いは酷かった。涼しそうな顔をしてケーキをほうばる隣の客が信じられない。
早く店を立ち去りたい気持ちを抑えてノートの礼に夏休みの割のいいバイトを渡野近に話した。
俺の友人の加藤の実家の農業を手伝うというものだが、実際は子供達の家庭教師と遊び相手になっている時間が多い。
一週間三食おやつに酒つまみ付で、去年は四万円頂いた。
今年も俺はそのバイトで四万円を頂く予定だった。
他にも誰か誘っていいと加藤に言われていたので、渡野近を誘ってみたが、渡野近は実家に帰ってやることがあるとかで断られてしまった。
悪臭をかがされても、誘いを断られても、一番厄介なレポートを終わらせ有頂天になっている俺の機嫌を損なうようなことはなかった。
特別な夏になればいい。
特別な夏になってしまうことも知らずに、その時の俺はただ目先の快楽だけを追っていた。
作品名:呼び寄せるもの 第二弾予告 作家名:高須きの