千分の一ミリ
プロローグ
底に居る、ヒトのようなものに触れたんだ。
ソコってどこだ?
底は底だよ。湖底だ。
ああ、そのソコか。
そんな中途半端なところで呰見(あざみ)との会話はぱたりと終わってしまった。
幾分まだ消化不良な気持ちは残っていたが、それ以上先を話すのもまた億劫だ。
窓の外に眼をやり、すぐ隣に立つ2号館との建物の間から僅かに覗く並木道のケヤキを見た。
葉が落ちて寒々しい姿を見せるそれは、真冬の薄く雲の掛かった色あせた空とのコントラストが美しい。
そんな事を思ってから手元に視線を戻し眼を閉じて再び思い返した。
底に居るヒトのようなものに触れた。
こっちを見ていた。そう、目が二つあって、その間にスッと鼻筋が伸びていて、その下に少し厚めの肉が重なっていた。
あれは紛れもなく口唇。ただし血の通っている様子は微塵もないそれだった。
水面が月明かりで光る動きに合わせて、頭部と思われる場所から伸びた毛がユラユラとまるで海藻のように揺れていた。
アレがヒトであるなら髪だあれは。控えめな眉もあったし側面には耳のようなものもあった。
ただそれは微妙に人間のそれとは異なる形をしていたように見えた。
底で膝を抱えていたヒトのようなものは、じっと僕を見据えて瞬きひとつしなかった。同じく僕も目を逸らせない。
不意にそいつはユラリと腕を僕の方へ伸ばした。真っ白過ぎる皮膚はまるで蝋のように生気がなかったが、逆にそれが美しいと感じずにはいられなかった。月光を浴びたそいつは蒼白く光ってさえ見える。
恐る恐る、水面に指先を浸す。
そいつに至るまでどれほどの距離があるのかはっきりとは掴めなかった。すぐ傍に居るような気もするし、何メートルも深い場所に居るような気もする。その間ずっと逸らさずにいたソイツの眼からは、何かを期待するような粘着質なものを感じた。それと同時に、何かを諦めるような色も。
一瞬、手を突き出すのを躊躇う。湖に引き込まれるかもしれない。そういったごく有り触れた恐怖感が遅れて沸いた。しかしそいつは僕が触れるまで幾時間でも微動だにしないだろうという根拠のない確信があった。
触れて欲しいのか?
頭の中で問う。勿論返事はない。逆に僕の中で別の答えが勝手に生みだされる。
僕が触れたいのだ。この不確かなものに。
それまで動きを止めていた体をぐっと乗り出し、右腕をあらん限り湖底に向けて伸ばした。
肩と胸が少し、頬も水面に軽く触れ、耳が辛うじて触れたり触れなかったりするほどだった。
もう無理だ、と思った矢先、そいつの指先が僕のそれにトンと触れた。
触れただけ。
指を絡めるでもなく、僕の手首を掴んで湖底に引きずり込むでもなく、そいつは指先をすい、と気持ちばかり僕の指に擦りつけると、ふっと影を落とすように微笑んだ。気がした。
月が雲に隠されたのか、風で木が薙いだのか、そんな風に僕は考えたが、月灯りは不気味なほどまっすぐと僕らを見下ろし、一塵の風も吹いてはいない。僕の投げ出した腕が打つ波紋だけが静かに広がるだけで、水面は殆ど静寂だ。ソイツの口唇が「あ」とも「え」ともつかない形に薄っすらと開かれ、ぷかりと空気を吐きだした。
どこから酸素を供給しているのか、そいつの口からは次々に気泡が漏れてくる。
そもそもこのヒトのようなものが体内に取り込む気体が酸素であるかどうかも定かではないが。
一見して鰓はついていないようだ。となるとやはり肺呼吸なのだろうか。これも同じく人間と同じ仕組みの体、すなわち五臓六腑が完備された体であるかは定かではない。
未知への異常なほどの興味。それだろうか。僕はそこまで探究心の強い人間ではなかったはずなのに。周りの事などどうでもいい。興味のない事へはとことん興味がない。つまらぬ人間だった。冷たい人間なのだ。親しくしていた人間であろうと、相手が自分に対する興味を失えばこちらも同じように一気に心を冷却出来る。冷めているのだ。
去る者は追わない。来る者に対してはかなり選り好みが激しい。
そんな自分と僕は一緒に居たいとは思わない。よって、ある1人を除いて特別誰かを傍に置いた事はない。完全なる孤独に絶えるだけの強い意志も持ち合わせておらず、心おきなくありのままの自分で居られる相手だけを選び、たまの安心を得ていた。それが呰見だった。
呰見はきっと僕にそこまで興味がないのだ。だからこそ心地よい。
こちらを詮索するでもなく、同じだけ己の事も語らない。しかし打てば響き、いなせば通り過ぎた。そしてふと寂しくなった時呼べば必ず現れて他愛もない話題とやる気のない笑顔をくれた。
僕は他人に踏み込まれ過ぎるのを極端に嫌っていた。馴れ馴れしくなってくるとひどい場合嫌悪感や吐き気すら覚える。まずいな、と思ってからはあえて接触を避けたりして新密度を上げないよう振舞う。相手がそれに気づいているかどうかは分からなかったが、恐らく僕は嫌悪を隠せていないはずだ。
ぼんやりと日頃の人間関係の鬱陶しさに思いを巡らせていると、ようやくソイツが放った気泡が湖面に至り、「ぱ」と小さな音を立て弾けた。そこから微かに甘い香りが漂った気がした。おそらく錯覚だろう。ふる、と一度頭を揺らし固く眼を閉ざす。そしてまたゆっくりと開き湖底に眼を凝らす。先程までぼんやりとしか見てとれなかったのが嘘のように、そいつの顔がはっきりと眼に飛び込んでくる。
呰見。
そうだ、コイツの顔は僕の友人のそれと瓜二つだった。
その事実に気付いた刹那、僕は勢い良く水中から腕を引き抜く。
「あ」とも「え」ともつかない音にならなかったあの声が、今になって頭の中に響いて来た。
「呉」
そう、僕を呼んだのだ。
もう一度そう動いた口唇から覗く舌だけが、奇妙なほど赤くてゾクリとした。