虹色道に集う人々
部活動に忙しい友人たちを尻目に、一足早く午前授業のみで終わった学校をあとにする。
田舎らしく山間にひっそりと建つ母校を背に、上を向けば薄い雲から控えめに零れる日の光にもどかしさを感じながら、今はなりをひそめる桜並木道を下る。
並木道が終われば、十字路からさらにまっすぐ伸びる石畳の遊歩道を十五分ほど歩いて、今時珍しく二両編成で事足りるローカル線の走る無人駅がある。
遊歩道に入れば、駅までは道の両脇をこれでもかというほどに、見事な紫陽花達が所狭しと陣取っている。ここは地元ではちょっとした紫陽花の名所なのだ。
十数メートル毎に木枠で区切られたその色とりどりの紫陽花たちが居並ぶこの道は、地元民には虹色道なんて名前で呼ばれている。
品種や土壌の肥料を変え、同時期に様々な色合いの紫陽花達が存分に自己主張する様子を見事に表した、粋なネーミングだと思う。
虹色道は途中途中に散策を楽しむ人々のための簡易休憩所が設けられており、週末のこんな時間には、色々な人々が小雨にもかかわらず出向いていた。
最初にすれ違ったのは、小さな子供を連れた若い母親。
色鮮やかな紫陽花を手に取ってはしゃぐ息子をみて微笑みながら、時折薄雲から差す陽に眩しそうにしている。
紫陽花の花言葉を「家族の結びつき」という説があるそうだ。小さな萼片が寄り集まっている様から連想されたものだとか。
まさにこの虹色道に、ぴったりのお二人。
次にすれ違ったのは、こんな田舎町にはちょっと不似合いな、垢抜けた服装のお兄さん。
彼方は気がついていないだろうけれど、ここで何度かすれ違ってて彼の事は実は見知っている。
彼はいつも、違う女性と此処を歩いているのだ。
でも、今日はお一人。
あんまりおいたが過ぎて愛想をつかされたのか、はたまたこれから来る新しい彼女を待っているのか。
知ってる?
紫陽花の花言葉には、その色の移り変わりから「心変わり」というのもあるそうで。
果たして今回それは彼に起こったのか、彼女さんに起こったのか。
次に見えてきた人影は、備え付けられたベンチに腰掛けて紫陽花を眺めているおじいさん。
このおじいさんのことは、よく知っている。ずばり名付けて、「アジサイ博士」だ。
彼はいつもここで、ああして紫陽花を眺めている。
「こんにちは」
後ろから声をかけると、おじいさんはゆっくりとこちらに向き直り、いつもかぶっているおしゃれな帽子のツバを軽く持ち上げて会釈をしてくれた。
ここは休憩所になっていて屋根がついているので、雨を逃れているそのベンチのおじいさんの横に、いつもの様に腰掛けた。
「今日は小雨を浴びて、紫陽花達が活き活きしてますね」
そう言うと、おじいさんは目尻にたいそう皺を寄せて微笑んだ。
「あぁ、そうだね。よく澄んだ色合いで、喜んでいるね」
そう言うとおじいさんは、まるで我が子を見つめるような優しい目で紫陽花に視線を向けた。
「お嬢さんは知っているかな。アジサイという花の漢字を」
おじいさんがそう言うと、私は即座に答えた。
「えっと、紫の陽の花、で紫陽花、ですよね」
自信たっぷりに答えると、おじいさんはこちらを見ながら、いたずらっぽいチャーミングな笑みを浮かべた。
「半分正解で、半分は誤り、かな」
「半分・・・?」
首を傾げてそう言うと、おじいさんは紫陽花に視線を戻してゆっくり口を開いた。
「初めてアジサイという花が文献に出たのは、万葉集だと言われているね。万葉集はご存知かな?」
おじいさんの問いかけに、コクリと頷く。古文の授業で丁度扱っている真っ最中だ。
「そこには二首の歌に、こう記されている」
そう言うとおじいさんは脇に立てかけてあった傘の先で、地面に文字を書いた。
地面には、味狭藍と、安治佐為の文字。
私はへぇーと口に出しながら、それを見下ろす。
「だが後世でアジサイに漢字をあてがうに当たり、唐の詩人の白楽天の詩の中にあった、紫陽花という文字が使われた。それが今の世に広く定着している、というわけなんだよ」
言葉と共に地面には先の文字の下に、紫陽花の文字。
再び感心したように私が声を上げると、おじいさんはまた微笑んだ。
「それじゃあ、アジサイって元々は中国の花なんですか?」
そう問うと、おじいさんはしたり顔で首を横に振った。
「いいや、日本と、あとは東南アジアが原産だね。白楽天の詩にある紫陽花というのは、中国のとあるお寺の山樹に咲く、紫色の仙界の麗華の事を言うのだそうだよ。私たちのよく知るアジサイとは、無関係のものだそうだね」
言いながら、更に地面に文字を描く。
そこには、「集真藍」の文字。
「これの読みは、あづさあい。「あづ」は集まるの意で、「さ」は接頭語。そして「藍」が青の意味だね。この字が学問的には有力とされるアジサイのあて字なんだよ」
「集まる、かぁ。なんか、この道と私たちにぴったりの字。素敵な響きですね」
三たび、私は感嘆の声を上げながらそういった。するとおじいさんは満足そうな笑顔でそれに頷いてくれて、またいつもの優しい目でアジサイを眺めた。
「あぁ、その通りだね。私もこの字が好きだよ。人々が集まり、アジサイが綺麗に咲くこの虹色道は、本当に私の宝物だ」
おじいさんはそう言うと、ゆっくりと立ち上がった。
「さて、今日はここまでにしよう。またお嬢さんに会えるのを、楽しみにしているよ」
小雨もすっかり止んだ空をふと見上げると、おじいさんはゆっくりした足取りでいつもの様に、駅と反対方面に歩いていく。
それを見送って、私も立ち上がった。
駅が見え始める辺りに、道の脇でアジサイに囲まれた、小さなお墓がある。
ずっと昔からあるみたいで誰も気にしないそのお墓には、私が一目惚れしたとびきり綺麗なアジサイがいつも添えられている。
初めてアジサイ博士と出会ったのは、まさにここで一目惚れした、その時だった。
直接聞いたわけじゃないけれど、きっと此処には博士の大事な人が眠っているんだと思う。
そしてこの虹色道を博士はその人と、いつも散策していたに違いない。
そしてその人は、博士と同じでアジサイがとても好きなのだろう。
そんな二人が長年愛してきたであろうこの虹色道を通る誰もが、何時の間にかアジサイが好きになっている。
当然だろう。
こんなに綺麗に咲き誇るアジサイ達に囲まれて、好きにならないわけがない。
今一度愛情たっぷりに虹色に咲き乱れるアジサイ達に視線を注ぐと、私はこの虹色道に週明けの再会を誓って、駅へと歩き始めた。
次はどんな話が聞けるのか、週明けを楽しみに待ちながら。