守るべきものは
情報部と表札のついた部屋の中に駆け込んできた男の叫びに、赤い髪をオールバックにし、細いメタルフレームの眼鏡で瞳を隠した、【室長】と書かれた札の置かれたデスクに座っていた青年が、表情ひとつ変えずに応じる。
「…なんだ?我らが大佐殿が独断でコウ家を襲撃し、若当主が行方不明。大佐殿のご英断によって、この地方一帯を牛耳るチャイニーズマフィアを俺達軍部が完全に敵に回すはめにでもなったか?」
多分に皮肉という名のスパイスがふりかけられた青年の答えは、そのまま男が報告しようとしていた事柄で。
彼は脱力したように部屋の中に足を踏み入れながら、年若き上司を恨めしそうな視線で見つめた。
「……もうご存知だったんじゃないですか……何だってそんな落ち着いてられるんですか?」
「あのオッサンがやらかしそうな事なんぞ、簡単に予想がつくだろ。」
こっちはお陰で夜中に叩き起こされて寝不足だ、と不機嫌そうなオーラを出す青年が、溺愛する年の離れた弟と、一握りの信頼が置ける使用人たちだけの屋敷に住んでいる事、そして今日から一週間は、本来なら彼にとって実に半年振りの休暇だったことを思い出した男は、心の中で騒動の中心である【大佐殿】の冥福を祈った。
陸軍少佐、ガイ・レクスタ=フェオンティウスのブラコンぶりは、軍部ではもう暗黙の了解というか、常識の範疇だ。
権力争いが激しい軍上層部において、弱点をわざわざ自ら露呈させるという事は、本来なら自殺行為に他ならない。
しかし彼は、弟を害そうとした者は悉く血祭りにあげ、あらゆる手を使って相手を失脚・破滅へ追い込むことから、いつしか『情報部室長の身内に手を出すのなら、遺書と身辺整理を先にしろ』とまで言われるようになった。
確か先日、久しぶりの休暇を利用して、弟とゆっくりどこか旅行でも行こうかと観光ガイドを開いていた上司の姿を見ていた身としては、休暇中にも関わらず仕事場に緊急召還の運びとなったこの青年が、一体後々原因である所の【大佐】になにを要求するのか、想像もつかなかったし、また、想像したくもなかった。
「……そういえば、コウ家の若当主。写真はあるのか?」
「え?あ、はい!」
青年の問いに、男は奥にある鍵つきの戸棚のひとつから取り出したファイルの中から、一枚の写真を渡した。
「これがコウ家の現当主、セイランです。」
「……おい。コウ家の当主は、男じゃなかったのか?」
写真に写っているのは、長い黒髪を靡かせた、吸い込まれるようなピジョン・ブラッドの瞳が印象的な美女……ではない。残念な事だが。
「確かにキレーな顔ですがね、そいつは確かに男ですよ。」
年の頃は、たしか目の前の青年と同じくらいだった筈だ。
こちらも、一つ一つのパーツは整っていて、美人と言っても良いくらいなのだが、立てば男も追い越される程の長身と、壊滅的な目付きの悪さがそれを邪魔している。
これがひと度、弟の前に立つと深い皺を刻んでいる眉間が緩んで、『本当に兄さんに軍人なんてやれるのか?』と疑う程の緩みきった表情になるのだから、つくづく愛というものは偉大である。
「…まぁ良い。これ一枚しかないのか?」
「…いやぁ、コウ家は知名度と規模に反して、幹部級になると情報の露出が殆んど無いファミリーなんですよ。それだって、俺達が撮ったんじゃなく、とある筋から買い取ったものですし。あ、でも写真に写ってるのは確かにセイランですよ。」
「……そうか。」
写真を手にした青年が席を立って、扉の方へ歩いて行くのを見て、男は自分の上司である彼へ声をかけた。
「どこに行かれるんですか?」
「屋敷に戻る。休暇はお流れになりそうだしな。何も告げずに出てきたからな。」
愛する弟との休暇を邪魔された青年の表情は、鬼も逃げ出しそうな形相だったため、男もただ敬礼して見送った。
彼は、知らなかった。
上司が既にコウ家の若当主、写真に写る青年と出会っていた事を。
「…兄さん、遅いな……」
夜中に緊急呼び出しを受けて出ていってしまった兄を、少年は待っていた。
少年の座る椅子の前には、兄のベッドが鎮座しているが、そこに眠る人間は、彼の兄では無い。
少年は、自分と同じ黒髪をもつ青年の事を、どこかで見たことがある気がした。
おそらく、兄が手ずから巻いたのであろう包帯だらけの身体は、子供の目から見ても痛々しいものだ。
「………ん………」
「……あ……」
目を開けた美しい青年の瞳は、人の目を引き付ける、鮮やかなピジョン・ブラッドの色彩を湛えていた……――――。