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浮気の始まり

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「『浮気の始まり』

 その人の名は郁子。昭夫のかつての友人である濱田利一の父親である周平の再婚相手。周平とは、年が二十歳以上も離れている。かつてと言ったのは、その友人が五年前に交通事故で母親とともに死んだから。

 郁子はコケテッシュに微笑む。若き心理学者秋田昭夫はこの手の微笑が苦手だ。こちらとあちらの境界線を消すような魔力がある。それにしても何という荷物を預かったことか。今となっては後悔しても始まらないが。
「今度、アメリカに長期出張する羽目になった。郁子独りぼっちじゃ寂し過ぎる。どうだね、君は相変わらず貧しい大学助手だ。一つ、出張の間、この家に引越しして、妻を守ってくれないか?」
唐突な申し出で昭夫はどう答えていいのか迷っているうちに、勝手に了解としたと周平は判断した。それにあわせるかのように郁子も『よろしく、お願いします』と言うものだから、断りきれず一緒に住む羽目になった。

 郁子は清楚で、貞淑で、控え目で、口数が少ない。一緒に住んで、そんな郁子のイメージができた。もっとも昭夫はまじまじと郁子を見たことも、会話らしい会話もしたことがなかったが。

郁子は一階に住み、昭夫は二階の和室で暮らす。平日だろうと休日だろうと、昭夫は大学に行くから、ほとんど顔を会わすことのない奇妙な共同生活だった。それでも、赤の他人と一つ屋根の下で暮らすことに、昭夫はどきどきしたが、郁子はいたって平然としている。たまに顔をあわせると、「洗濯物があるなら出してもいいのよ」とか「一緒にご飯でも食べる」と誘ってくれるのだが、いろいろな理由をつけて断った。
 
春のある日の昼下がりのことである。
 昭夫は出かけようかと思って階段を下りたところで郁子と出会った。
「コーヒーでもどう?」と声をかけられた。コーヒーの甘い匂いに誘われてしまい、ついうなずいた。
コーヒーを入れながら、呟くように郁子が聞いた。
「桜の花はお好きかしら? 私は嫌いなの。なぜって、だって、花の命が余りに短すぎるもの。ぱっと散るなんて、儚すぎます。どう思いまして?」
「僕は桜が好きですよ」
「そう思っていたの」
「どうして、そう思ったのです?」
「この前、駅の前の近くにある桜坂で、じっとあなたは桜を眺めていたでしょ。声をかけようかと思ったけど止めたの。まるで桜の花に魅せられたかのように眺めていたから」
 昭夫は意外だと思った。いつもぼんやりとしていて、何事にもあまり注意を払わないと思っていたのに、ちゃんと見ていたから。
「昭夫さんは私のことを馬鹿な女だと思っているでしょ?」
「そんなことはないです」と思わず声を張り上げてしまった。
しかし郁子は動じない。あたかもそう答えることを読んでいたかのように。
「いいの。それより、今度、デートしましょう」と郁子はさらりと言った。
昭夫は言葉を詰まった。
「昭夫さんはハンサムだから、女の子にもてるでしょう? 私みたいなおばさんに興味ないかしら?」
 昭夫ははっとして郁子の顔を覗き見た。美しい。息を呑むほど美しい。花弁を不思議に重ねたバラの花のように。彼女にもバラと同じように棘があるのだろうか?
「困ったな」とわざと冷静さを装った。
「困る必要なんてないのよ。デートといっても買い物に付き合って欲しいの」と悪戯っぽく笑う。
一本とられたと思った。他人の心を読む玄人のつもりが素人に弄ばれた。平静を装いながら彼女を見た。澄んだ目で見ている。どうも瞳の奥が読めない。
窓から風がなだれ込む。彼女のとても匂いがした。何かが昭夫の心を貫いた。稲妻のようなものが体を貫き痺れさせた。

「昭夫はこの頃、変ね」と恋人の啓子が言った。
啓子は知的で美しい。結婚するなら、ずっと彼女と決めていた。郁子に出会うまでは。しかし、郁子と出会ってから何かが変わった。何となく興味も好意も薄れていっているのが、自分でも分かった。なるべく分からないように作っても、やはり女というのは勘が鋭い。犬のような動物的勘がある。
「少し変かもしれない」
少し間を置いた。啓子がじっと昭夫を見つめる。
「どうね、この頃、研究に没頭し過ぎているせいかな?」と誤魔化した。
「そうなの」と一応納得したような顔をした。啓子は知的ではあるが、複雑な女ではない。ある意味で繊細さに欠けている。
「明日、デートしよう」と啓子が小声で言う。甘えるときはいつもこうだ。
デートはワンパターンだ。映画や買い物をした後、食事をする。その後、啓子の部屋に泊まる。薄闇の中で動物的な愛を確かめ合って眠る。あたかも時計で計ったかのように物事が進む。
「ごめん、今日は読みたい本があるんだ」
 断るのは何も初めてのことではなかったから、昭夫は淀みなく言えた。だか、幾分の良心の疼きがあった。郁子の買い物に付き合うためにデートを断ったからである。
「どうしたの? 昭夫」
「何が」と昭夫は聞き返した。
「変だから」と啓子は答えた。
啓子の目を見た。どこか冷やかな感じがする。そういえば、愛の行為のときでも、同じような目をしていた。郁子ならどうだろう?  少なくとももっと温もりのある優しい目をするだろうと確信した。同時に自分の心が郁子に向き始めていることにも気づいた。

作品名:浮気の始まり 作家名:楡井英夫