charcoal3
どうして、浮気がばれないなんて思ったんだろう。
綾江の恋人――山村隆志は、浮気をしていた。
厳密に言えば浮気ではないのかもしれない。隆志の気持ちはいつでも綾江にあった。ただ、綾江以外とも『寝ていた』というだけで。ばれないと思っていた、そして今も思っているであろう隆志の神経を、綾江は疑う。
最初はただの予感だった。会話の最中に覚えた小さな違和感だ。無視しようと思えばできる程度のものだったが、綾江にはそれができなかった。そこから後は簡単だった。お互い一人暮らしの大学生なのに、隆志が綾江の来訪を断わる日が増えていた。一緒にいても、セックスを求めてこないことが、ある時を境にして出てきた。そんな小さなことがぽこぽこと見えてきて、しかも何時からかと記憶を遡れば、起点はほぼ同じ時期なのだ。
それと同時に、幼馴染の様子がおかしくなっていた。襟元の詰まる服を好んで着るようになった。冬が深まり、どんなに暖房が強くなっても上着を脱がなくなった。会話の最中に躓くことが増え、喋り方も不安げにぼそぼそとしたものになった。親しい誰もが異変に気付いていた。
一方で綾江は、幼馴染特別親しかったわけではない。家が近所で、小学校から大学までを同じ学び舎で過ごしただけの間柄だ。親同士の仲が良かったので他のクラスメイトよりも顔を合わせる頻度は高かったが、いつだってどうすればいいか戸惑っていた。共通の話題もなかったのだ。
木本清介。それが、綾江の幼馴染である青年の名だ。そして彼は、隆志と情事を重ねる相手でもあった。
隆志は綾江と清介が幼馴染なのを知っていたのだろうか。時々自答するが、答えは否だろう。綾江と清介は大学でそう親しい姿を見せない。そもそもお互いに親しいと思ってすらいないだろう。あまりに幼い頃から一緒にいたせいで、空気の様に、その場にいても気にしないのが常だった。
隆志も、同じ吹奏楽サークル所属で同じパートで、一番大人しそうな年下だったから選んだまでで、それ以上でも以下でもないだろう。
理由はわかりきっていた。綾江を大切にするためだ。本来ならば彼女に向かうはずの過ぎた激情、例えば暴力を働き、罵詈雑言をぶつける相手を選んだだけだ。愛情はいつでも綾江に向いていた。それは身体を重ねればすぐにわかる。隆志はいつでも、壊れ物を扱うように綾江に接した。けれど綾江は見抜いていた。隆志の本質はそれではない。高ぶった感情を抑えることなく、ほとんど奉公に近い形で与えるのが隆志なのだ。
大切にされているのはわかっている。全てわかった上で愛しても、いる。けれど他で欲望を収めようとしたことだけが許せなかった。全てを晒したら嫌われるとでも思われていたのだろうか。綾江はいつでも、隆志の全てが欲しかったのに。
寒波が弱まり春の到来を告げたある日、清介は綾江たちの前から姿を消した。綾江は必死で彼を探した。講義を受けた教室、大学の図書館、トランペットを吹いていた防音室、昼食を買いに走った購買、猫とじゃれていた木立のベンチ。心当たりを何日も捜し歩いた。
綾江が自身の内面を探った時、不思議とそこに安らぎはなかった。恋人の浮気相手が消えたなら、心のどこかで芽生えて当然と思った感情の代わりに緩やかな痛みが刺さった。まるで魚の小骨が喉に刺さったかのように。大したことはないのにしつこく纏わりついて、取れてくれない。
対する隆志には、綾江から見てもわかるほどの安堵と、焦燥の表情があった。拠り所をなくした隆志の欲望は綻びを見せ、綾江との情事も明らかに性急になった。
それでいいのに。綾江は日に日に激しくなる情動を一身に受けながら思う。最初から、綾江にぶつけていればよかったのだ。そうすればこんな感情を抱くこともなかった。
綾江は、そして隆志は、かけがえのないものを失った。方や友人とは呼べないものの空気のように付き合ってきた友人を、方や一時でも肌を重ねたぬくもりを。
二人のセックスには常に別の青年の影が落ちている。認めざるを得ない真実を柔らかく愛撫しながら、綾江はセブンスターチャコールフィルターの吸殻を齧りながら隆志の腕に包まった。