狼の騎士
「うわっ! あ、あんたなんてことしてるんだよ! 肉弾戦する貴族なんて聞いたことないぞ!」
落ちかかってきた男を避け、ゼルはわめいた。身動きまでをも奪う重傷を負ったらしい。こめかみ辺りを殴打されたエアル兵は、そこを手で押さえることもなくくずおれた。
「誇りを持たぬ者に誇りで立ち向かおうとするな。生き延びたいのなら手段を選ぶ暇などないぞ」
また一人、フェルティアードが切り伏せる。ゼルが押されれば代わりに彼が相手をし、敵兵は地に伏す。二人と敵のあいだには次々と骸が横たわり、いまだ存命している、ほんの数分前まで優勢だった者達の進撃を阻止しているようだった。
「くそっ、そっちだ! ガキのほうを片付けろ!」
命令を下したのは、フェルティアードと面していた元ベレンズ兵だ。逃げ腰になっていた残りの三名が、束になってゼルに襲い掛かる。四方八方からの攻撃を彼が受け止め切るなど無理に等しい。その中の一人は、例のベレンズ兵だった。
ただでさえ緊張と恐怖で一杯で、今にも体中から気が抜けそうなのだ。ここでフェルティアードが自分側に対し闘えば、指導者格らしいあのベレンズ兵が、彼の背中を断ち割るに違いない。どれだけ技術に長けていようと、一人倒すまでにはそれなりの時間を要する。
「耐えろ」
彼がよこしたのは、たったそれだけだった。ふざけるなと言ってやりたかったが、心の中で罵る間にも一人の剣が喉元へと突き進んでくる。
こいつを防がなければ。他二人の、脚や脚を突き刺そうとする剣は無視し、下から跳ね上げるように得物を振り、軌道を反らす。その代償として鋭い痛みがわき腹と太ももを貫いたが、そちらにかまってはいられない。
「おい、おまえらそこから離れろ!」
焦ったような声は、またあの裏切ったベレンズ兵のものだ。おれを殺せと言ったそばからどうしたっていうんだ。もしかして味方が到着したのか? 致命傷だけは受けまいと必死だったゼルは、剣ではない武器を握った腕が後方から伸びてきたことに、それが爆音を打ち鳴らすまで気付けなかった。
馬鹿みたいにまぬけな驚声がゼルの口を突いて出てきた。霧に覆われたように、聞こえる物音全てが不確かだ。それに、冷たいとも温かいとも感じられない、生ぬるいようなものが頬に張り付く。嗅いだことのない異臭も漂い、反射的に閉じていた目を開かせた。
対峙してい三人が二人に減っている。左端の男が消え、残った二人が空白になった領域の下部に目をやり、そして視線はゼルに移る。正確には、ゼルの横で煙を吐き出している、直線に近い筒状のものへと。
持ち手の部分のみしなやかな弧状になっているそれに、ゼルは釘付けになっていた。これが小型化した、しかし威力は極端には落ちていないという拳銃か。重厚感のある銃身と、丁寧に磨かれ滑らかな木製の銃床。握り手の先端は丸みを帯び、眩しいまでの白金に包まれていた。中間地点にある金属片の集合体が、おそらく発砲のための仕掛けになっているのだろう。
彼が撃ち殺したのは、寝返った味方兵だった。元味方ではあったが、迷いなく即死に近い形に追い込んだこの男の銃と手には、赤いものが細かく散りばめられている。飾りでも刺繍でもない。返り血だ。今さっき、自分の顔にも飛んできたではないか。
「わたしの手がすけば、これの用意も容易くなるというものだ。無駄だったな」
手早く拳銃をしまうと、フェルティアードは再び長剣を手にして二人目と斬り合った。我に返った三人目はゼルを斬撃の火花を散らす。
血の筋を描きながら、フェルティアードの刀身が閃いた。火器の登場に虚を突かれたのだろう。さして対等に渡り合うこともできずに、エアル兵の男は敗れ去った。
「そいつはわたしが相手する、おまえはやつを追え!」
ほとんどの敵兵は倒し切った。残るはフェルティアードが受け持ったこの男と、エアル兵達に命じていたベレンズ兵、そしてセキラとか呼ばれていた謎の男だけだ。
確かベレンズ兵は後ろにいたはずだ。振り返るも、すでにかの人物はいなかった。やや開けた、陽の光が大量に差し込んでいるほうへ、彼は逃げ去ろうとしていた。そこを突っ切られれば、太い樹木達の陰りが彼の姿を塗りつぶしてしまう。
「待て!」
男の足が速まるだけなのだが、ゼルはそう口にせずにはられなかった。どうしてこんなことをしたんだ? 大貴族ともあろう人間を捕虜にするでもなく、人知れず殺そうとしたなんて。それともこの男はベレンズではなく、エアルの人間であることを偽っていたのか?
全速力で走り出そうとした片足を、じくりと深い鈍痛が駆け巡る。ここで倒れたら絶対に逃げられてしまう。歯を食いしばり服の内を滴り落ちる血の感触を頭から消し、ゼルは己の体に鞭打った。
距離はそう離れていなく、腕を突き伸ばして斬りつけた。無論届きはしないとわかっての行動だ。突端が男の背を、紙で指を切った程度に傷つけたに過ぎない。しかし彼を戦闘に誘導するには十分なきっかけだった。男は得物を抜きながら、ゼルを真正面に捉えた。
「腹も脚もやられたのか。そんなんでおれに勝つつもりか?」
ふざけて笑っていた男とは思えない、醜悪な面構えだった。大量とまではいかないものの、出血も止めずに動き回ったせいか、ほんの少ししか走っていないのに息が上がっている。力が抜ける、というよりも入らない。
「勝とうなんて思ってないさ」
このまま話すだけで時間を稼げれば、どんなにか楽だろう。だが現実はそうはいかなかった。気力も体力も限界に迫っていたゼルに、男は容赦なく突っ込んできた。
(こいつ……怪我したとこばかり狙ってやがる)
移動手段を奪うためか、凶器は赤く変色した大腿を何度もかすめていた。思い出したように上半身も歯牙にかけようとするので、気を張っていなければならない。こちらにはそんな精力はもうないというのに。
逃がしだけはしない。自分が倒れなければ、こいつはこの場に留まり続ける。フェルティアードが最後のエアル兵を片付けるまで粘る必要があるのだ。
相手の突きをかわす。そうしたつもりが、刃は脇腹の裂傷をなぞっていた。文字通り身を切られるような痛みは立つ力までむしり取り、嘔気に似た呻きが喉を駆け上がってくるのを、空気ごと嚥下する。
腕をついて屈み込んだ青年を、男は動けないものと見て早々に踵を返そうとした。それを引き止めたのは、ゆっくりと地を這ってきた人間の手だった。
「逃がすか……!」
左手が男の足首を万力のように締め上げる。どこからわいてくるのか、ゼル自身も驚くほどの力だ。目に見えぬ何かが、外側からその手を押してきているようにも思える。男は化け物にでも遭遇したかのような驚相で状況を見下ろした。
剣を突き刺し、それを支点にのろのろと起立する。手を放すと男は慌しげに武器を構え直した。一度体勢を崩したせいで、顔にかかった髪には砂が降りかかっていたが、戦意の消えない碧眼には、それすらも見えていない。